Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 千住仲町(掃部宿)

  ○ 千住一里塚跡/千住高札場跡
  ○ 安藤昌益ゆかりの地
  ○ 内田銀蔵博士の生家
  ○ 掃部宿プチテラス
  ○ 源長寺
  ○ 掃部堤跡碑
  ○ 富嶽三十六景隅田川関谷の里碑
  ○ 仲町氷川神社
  ○ 仲町の家
  ○ 千葉サナ灸治院跡


千住一里塚跡碑 足立区千住仲町19-5

 大踏切通りと旧日光街道の交差点に、「千住一里塚跡」碑があります。
 昭和49(1974))年の建立です。

    

○千住高札場跡碑 足立区千住仲町18

 千住一里塚跡碑の西側に「千住高札場跡」碑があります。
 1989(平成元)年の建立です。

    


内田銀蔵博士の生家 足立区千住仲町11-11

 掃部宿プチテラスから、旧日光街道を少し北に行くと、ビルの壁に説明板「内田銀蔵博士の生家」があります。
 この場所は、日本経済史学の先駆者であった内田銀蔵博士の生家とのことです。
 内田銀蔵博士の墓は、清亮寺にあります。

    

(説明板)
「内田銀蔵博士の生家
 明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年(一八七二) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。
 明治二十二年、東京専門学校(後の早稲田大学)政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文科大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにあります。
 三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国留学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。
 また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文科大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。かくして四十年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。
 第一次世界大戦後の大正七年(一九一八)、欧米各国に出張して翌年帰国しましたが、間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。
戒名は「文教院智顕日明居士」、墓は日ノ出町四ニノーの清亮寺墓地にあります。
 なお、銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵書・橋本律蔵の薫陶を受けていたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。
 長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住宿を結ぶ医師たちの系譜が、他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。
  二○○六年五月設置、二○○九年二月増補
    安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」

   


掃部宿プチテラス 足立区千住仲町7-8

 平成27(215)年4月19日、「掃部宿憩いのプチテラス」がオープンしました。
 足立区が自転車屋の跡地にミニ公園を設置したもの。
 プチテラスの中には、千住宿、掃部宿の歴史を説明した案内板が建てられています。

 掃部宿(かもんしゅく)とは仲町、河原町、橋戸町一帯の呼び名で、千住宿の一部でした。
 掃部という名前は、江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤(かもんつづみ)築堤等に尽力した
 「石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)」から名付けられました。

    

    

(説明板)
「千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)
 千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(一六ニ五)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光・東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。 現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、四キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
 掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、 万治元年(一六五八)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
 名前の由来は慶長三年(一五九八)村を拓き、元和二年(一六一六)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)にちなみます。
 掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳譜文化、江戸絵画、漢学・医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年(一九三一)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
 昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
  平成二十七年三月
    千住仲町まちづくり協議会 うるおいのあるまちづくり部会」

  


富嶽三十六景隅田川関谷の里碑 足立区千住仲町28-1

 葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。
 作品が描かれたと思われる場所に、NPO法人千住文化普及会が「公益信託あだちまちづくりトラスト」の助成金を受け、
 顕彰碑が2016年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。

<隅田川関屋の里>

 現在の墨堤通り沿いを疾走する早馬が描かれています。
 場所は仲町氷川神社南側付近と考えられるので、千住仲町公園(千住仲町28-1)入口に設置されています。

   

(説明文)
「葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」

   

「富嶽三十六景 隅田川関谷の里」(北斎)

  

「絵本江戸土産 関屋の里」(広重)

「木母寺より十町ばかり東北にあたれり ここは東都の名所にして古へよりその名高く 春秋の眺望には遊人騒客ここに遊びて 一時延気の場となすめり」

  

「名所江戸百景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」(広重)

 真先稲荷境内の田楽屋から隅田川の対岸を見た構図です。
 水神の森と内川、筑波山が見えます。筑波山の下のほうが関谷の里です(2枚目拡大)。

   


仲町氷川神社 足立区千住仲町48-2

 平安時代の延喜年間(901-23年)に現在地より南東の牛田寄の元宮という所に創建し、
 江戸初期の元和2(1616)年に現在地に遷座。

   

「江戸名所図会」

 其二「牛田薬師堂関屋里」と其三「関屋天満宮」を繋げています。
 手前に千住川(隅田川)、右から奥に綾瀬川が流れています。

  

 其二下の隅田川沿いに「元天神」が見えます。
 其三「関屋天満宮」に、「関や天神」「氷川」が見えます。
 右手に「此辺を関屋の里といふ」とあります。

   

<仲町氷川神社>

(説明板)
「仲町氷川神社
 仲町氷川神社は素戔嗚尊を祭神とし、社伝によれば元和二年(一六一六)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から五丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理していたと記されている。この神社には、つぎのような文化財が伝えられている。
 関屋天満宮碑 関屋天満宮は、神社本殿左側に社殿がある境内社のひとつである。「新編武蔵風土記」に「天神社小名関屋ニアリシ社ヲ移セリ。故ニ鳥居ニ関屋天満宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」とある。関屋から移転した時代は不明である。文化四年(一八〇七)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川の門人たちが建立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には、月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(歴史資料)となった。
 金銅装神輿 総高二二四・五cm、胴部幅六三・五cm、基部幅一一六cmの大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔絵で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
 弁天像供養庚申塔 境内の岩の祠の中に安置される。元禄二年(一六八九)重陽(旧暦九月)二十八日の日付を持ち、十名の建立者の名が刻まれている。庚申塔には珍しく、弁財天を主尊として陽刻している。その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表わされている。昭和五十八年十二月に区登録有形民俗文化財となった。
 四神紋鏡(天保戊戌年在銘) 天保九年(一八三八)制作で、鏡背に青海波に秋津(蜻蛉)の和風文様が鋳出されている。付属する鏡立は、嘉永七年(一八五四=安政元年)に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和六十年十一月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
  平成二十二年三月 足立区教育委員会」

  

<鳥居>

 鳥居には「明治三十七八年日露戦捷紀念」とあります。
 別途「日露戦捷紀念碑」もあります。

  

<石燈籠>

 石燈籠は文政2年銘。

  

<拝殿/本殿>

 拝殿は、味のある柱のある洋風の柵で囲まれています。

     

    

<境内/社務所>

    

<関屋天満宮>

 江戸名所図会に描かれている関屋天満宮です。
 石碑は足立区有形文化財です。

    

    

(説明板)
「関屋天満宮(足立区有形文化財 関屋天満宮碑)
 御祭神 菅原道真
 由緒
 鎮座のはじめは、村上天皇の時代、天暦三年の二月(九四九年)で御神体は菅公の自作百体彫刻の内の一体であると伝わり、元関屋の里に在って、関屋天神と申しました。
 新編武蔵風土記 文政十一年(一八二八年)の編纂によれば、源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより、関屋の地名が起きたといわれ、この地はその昔、名主庄左ェ門の所有地で、この辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により、天明七年八月(一七八七年)当社内に御遷宮されました。
 その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」と詠まれたのはこの辺りと思われます。
 また塚の周囲の葦がみな片葉であった為に、片葉の天神ともいわれていました。
 古くから学業成就の神として里人に親しまれています。
   例祭日 四月二十五日」

  

<江島神社弁財天>

 石の鳥居扁額には、龍の彫刻が施されています。

     

弁財天供養庚申塔>

 小さな池で囲まれた小岩窟に、弁財天供養庚申塔が祀られています。
 元禄2(1689)年の造立。
 弁財天像は、台座に「三猿」が彫られており、庚申塔も兼ねる珍しい弁財天像です。

    

(説明板)
「千寿弁財天 (千住七福神)
 祭神 市杵島比売命
 弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福徳・知恵・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています。
 この弁天像は供養庚申塔として元禄二年(一六八九年)に造塔されたもので右手に剣を握り左手に宝珠を持っています。
 塔の上部には日月、中ほどには二鶏、下部には三猿がそれぞれに刻まれています。
 弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています。
 (足立区登録有形民俗文化財)」

  

<三峯神社/稲荷神社>

    

<日露戦捷紀念碑>

 駐車場入口に「日露戦捷紀念碑」があります。
 側面「海軍大将東郷平八郎題」とあります。
 出征軍人の名が刻まれています。

     


仲町の家 足立区千住仲町29-1 HP

 千住大橋の建設に尽力し、掃部堤(現在の墨堤通り)を作るなど、この街の繁栄の礎を築いた石出掃部亮吉胤。
 その子孫が暮らした屋敷です。氷川神社の前にあります。

<入口>

    

<庭>

    

<西門、パンフレット>

   

<新田開発と掃部新田>

 足立区立郷土博物館の展示パネルより、掃部新田部分の抜粋です。

   


千葉サナ灸治院跡 足立区千住仲町1-1

 千葉佐那・坂本龍馬2人像が令和2(2020)年10月10日に完成。

(パネル文)
「千葉灸治院跡地
 千葉道場での龍馬と千葉佐那
 一八五三年千葉道場に入門した坂本龍馬は千葉定吉の次女佐那と恋仲になり、
 両家は婚約を結ぶも、龍馬は江戸に出立し京都で横死する(一八六七年)
 佐那は龍馬の形見の袖を、生涯離さずこの千住の地に灸治院を開業し、私が龍馬の妻ですと語っていたという。」

    

(説明板)
「坂本龍馬の心の華“千葉さな”
坂本龍馬青雲の志をもって江戸千葉道場で修業
千葉道場の娘“千葉さな”と運命の出会い
二人の恋愛も維新の荒波に流される 
龍馬の死後悲しい運命とともに縁あって千住で生き千住仲町で生涯を終えた“さな” 
生前龍馬の形見の羽織を抱いて“私が坂本龍馬の妻です”と叫び続けた声を聞いた人幾多あり
あわれ千住仲町にて没す 
“千葉さな”の子孫は今も千住仲町三ー七にて存在「千住の灸 千葉灸治院」の看板今もあり
作家「阿井景子氏」(足立区中央町在住)によれば“千葉さな”の遺骨は八柱霊園に埋葬されているという 
明治 大正 昭和を過ぎ平成の世に今二人を天空に結ばせてやりたい」

(説明板)
「千葉佐那 千葉灸治院跡
千葉佐那(さな子)と千住中組の千葉灸治院
坂本龍馬の婚約者、千葉佐那が千住中組(現千住件町)に明治維新後の明治19(1886)年から暮らす。学習院女子部の舎監となり、この地で千葉灸治院を開業、生業とした。
千葉佐那
[天保9(1838)年生・明治29(1896)年10月15日59才病没]
北版一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の二女。
小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀免許皆伝。能馬より3才年下である。
16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた龍馬と知り合う。文久3(1863)年、龍馬は千葉佐那の事を姉の乙女に紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、結婚には至らず、龍馬の死を知った後も龍馬の事を思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。
  平成22(2010年4月 NPO法人 千住文化普及会」

     

     

<坂本竜馬(近世名士写真2 昭和10年)>
  天保6年11月15日〜慶応3年11月15日(1836年1月3日〜1867年12月10日)

  

(坂本龍馬関連)
 ○ 千葉佐那・坂本龍馬2人像(千葉定吉道場) 当頁
 ○ 千葉周作玄武館 千葉周作の道場にも足を運んで稽古に励む
 ○ 佐久間象山砲術塾 門下生となる
 ○ 浜川砲台跡 坂本龍馬も任務に就く
 ○ 立会川の坂本龍馬像 20歳の龍馬像
 ○ 勝海舟邸 勝海舟暗殺未遂、逆に門下生となる
 ○ 勝海舟・坂本龍馬の師弟像
 ○ 坂本龍馬、お龍と薩摩でひと休み碑


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