○ 浜川砲台跡
○ 立会川河口堤防船溜り
○ 坂本龍馬と咸臨丸の壁画
○ 浜川橋(涙橋)
○ 北浜川児童遊園(坂本龍馬像)
○ 仲町稲荷神社
○ 火防稲荷神社
○ 土佐高知藩山内家下屋敷跡
○ 天祖諏訪神社
かつて土佐高知藩山内家抱屋敷内の立会川河口左岸に砲台が築造されました。
新浜川公園入口に「浜川砲台」の冠木門があり、
公園内に実物大レプリカの大砲と説明板が設置されています。
平成27(2015)年11月、品川龍馬会による設置です。
<浜川砲台>
坂本龍馬像のある北浜川児童遊園に、説明板「浜川砲台」が設置されています。
(説明板)
「浜川砲台(品川区立新浜川公園)
土佐藩は、万治元年(1658)頃いまの東大井に1万7千坪余りの下屋敷を入手しました。その中には立会川河口北側の荷揚場も含まれており、この下屋敷は、国元からの物資保管にも使われたようです。
幕末、ペリーが来航し海防が切迫した課題となると、幕府は台場築造を急ぐとともに、諸大名に江戸湾の警護を分担させました。土佐藩は荷揚場の沖を埋め立て、土台に石垣を用い、大砲を引き回し、任意の位置で撃てるよう専用通路がついた浜川砲台を築造しました。坂本龍馬もこの砲台に詰めたとも伝えられています。
浜川砲台があった北側の品川区立新浜川公園には、砲台に据えられたホーイッスル砲のレプリカが置かれています。」
<浜川砲台の大砲>
大砲前に設置されている説明板です。
(説明板)
「浜川砲台の大砲
幕末史研究家
小美濃清明
嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる四艘の艦隊を日本に派遣して、開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。
日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。
土佐藤はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
嘉永七年(一八五四)一月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藤が違ったのが、浜川砲台である。
六賞目ホーイッスル砲 一門(復元)
一貫目ホーイッスル砲 二門
鉄製五貫目砲 五門
計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。
実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藤の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。
品川の固めの出しのよくきくは
下地もうまくなれし土佐武士
(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)
これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。
この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ二十歳の坂本龍馬がいたのである。」
<浜川砲台(大砲レプリカ)>
<遊具>
クジラは親子なので、「寛政の鯨」をイメージはされていないですね。
咸臨丸か、黒船ですかね?の遊具もあります。
新浜川公園から堤防にのぼって、立会川河口堤防船溜りに出ます。
堤防は花海道として整備され、勝島運河は船溜まりとして利用されています。
<しながわ百景>
花海道と船だまりは、「しながわ百景」に選定されています。
「しながわ百景
区制40周年・区民憲章制定5周年記念 昭和62年選定
53 しながわ花海道と船だまり
平成29年 品川区」
「江戸名所百景 南品川鮫洲海岸」(広重)
江戸時代の広重が描く鮫洲海岸です。
延々と連なる海苔養殖場が描かれています。海苔の養殖の「ひび」、海苔採用の「ベカ船」が見えます。
新浜川公園から、東京都で水道局浜川ポンプ所の脇を通って立会川河口へ向かいます。
東京都下水道局浜川ポンプ所の壁画「坂本龍馬と咸臨丸」があります。
浜川ポンプ所は解体工事中でした(令和5(2023)年12月まで)。
立会川に架かる東海道の「浜川橋」です。またの名は「涙橋」です。鈴ヶ森刑場跡まで南へ650mほどです。
小塚原刑場の近くには「泪橋」跡があります(こちらで記載)。
北→南 南→北
上流(弁天橋方面) 下流(浜川ポンプ所方面)
(説明板)
「浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。
この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の一六〇〇年頃と思われす。現在の橋は、昭和九年(一九三四)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安四年(一六五一)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
平成十三年三月三十日 品川区教育委員会」
<商店街>
国道から旧東海道へ、「立会川商店街」「立会川龍馬通り繁栄会」と2つの商店街が続いており、
立会川の「弁天橋」の横に坂本龍馬像が建っている北浜川児童遊園があります。
龍馬像が置かれている前の商店街が「立会川龍馬通り繁栄会」です。
商店街を抜けた丁字路を左右に走っている道路が旧東海道です。
丁字路を右折して50mほど進んだところが「浜川橋(涙橋)」です。
<北浜川児童遊園>
<龍馬が世界と出会ったまち品川>
(説明板)
「龍馬が世界と出会ったまち品川
ペリーが初めて来航した嘉永六年(一八五三)、一九歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。
土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。
同年九月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。
品川での黒船警固から、龍馬の幕末は出発したのです。」
(指示標識)
「←第一京浜(国道15号 土佐藩品川下屋敷跡)
→旧東海道 浜川砲台跡」
<立会川 二十歳の龍馬像>
(説明板)
「立会川 二十歳の龍馬像
嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835-1867)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。
当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。
地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。
なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。
平成22年11月15日」
<しながわ百景>
立会川の坂本龍馬像は、「しながわ百景」に選定されています。
「しながわ百景
区制70周年 平成29年選定
108 立会川の坂本龍馬像
平成29年 品川区」
<顔はめパネル 十九歳の龍馬>
<坂本龍馬像>
足元が草履の坂本龍馬像です。
「しながわ花海道」周辺お散歩MAP
北浜川児童遊園の奥の高台に、仲町稲荷神社が祀られています。
諏訪神社が天祖神社に合祀され、諏訪神社の跡に諏訪神社の末社であった仲町稲荷神社が残り、祀られています。
<手水鉢>
「維時安政四年 (1857) 丁巳春三月吉日」の奉納です。
土佐高知藩山内家下屋敷跡から東進して、浜川砲台へ向かう通りがかりに寄った神社です。
扁額は「火防稲荷大明神」です。
中学校の工事中で、説明板「土佐高知藩山内家下屋敷跡」は撤去されています。
高知藩山内家の下屋敷と抱屋敷は、東海道を挟んで東西に位置していました。
立会川河口の抱屋敷の地には、嘉永6(1853)年に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれました。
北浜川児童遊園に設置されていた平成16(2004)年に高知市から寄贈されたプラスチック製の龍馬像が、
平成20(2008)年にブロンズ像に造り変えられたことにより、旧像は土佐藩の下屋敷跡である品川区立浜川中学校に移されています。
<参道>
天祖神社と諏訪神社の両社が合祀前の昭和10(1935)年に建てられた社号標は「天祖神社」です。
<由緒>
(掲示)
「由緒
祭神
天照大御神 豊受大神 建御名方神
天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし神威昭々郷土の発展と共に今日に至りました。昭和三十六年一月氏子各位の要望により天祖神社諏訪神社御改築奉賛會が設立せられ新社殿を建立し昭和四十年十一月一日両社を合祀いたしました。」
<狛犬>
慶応3(1867)年に奉納の狛犬です。
<旧狛犬>
天明7(1787)年銘の旧狛犬です。
<社殿>
二社が合祀された社殿は昭和40(1965)年の造営です。
<弁天池と厳島神社>
<日露戦役紀念碑>
「日露戦役紀念碑 碧海書」
明治40年4月の建立です。