【有楽町】
○ 南町奉行所跡(東京都旧跡)
○ 町名由来板「有楽町」
○ 数寄屋橋ふれあい散歩
○ 有楽町で逢いましょう歌碑
○ 有楽稲荷神社
○ 新ゴジラ像
○ スターギャラリー
【内幸町】
○ 町名由来板「内幸町」
・東京府庁舎
・東京倶楽部
○ この附近の江戸時代
○ 鹿鳴館跡
○ 旧第一勧業銀行時計塔
○ 樋口一葉生誕地
○ 渋沢栄一と帝国ホテル
安政6(1859)年、摂津高槻藩主・永井飛騨守直輝が、上屋敷地内に創立した邸内社です。
現在は有楽町電気ビルヂング前に建っています。
2018年3月22日に除幕式、新ゴジラ像が設置されています。
東京ミッドタウン日比谷と日比谷シャンテを繋ぐ地下2階の通路に「スターギャラリー」があります。
全77名の人名リストと手形が掲げられています。ドラえもんの手形もあります。
(参考)
「スターの広場」(浅草公会堂) こちらで記載
浅草ゆかりのスターの手型とサイン337人。
「日本スポーツ文化賞栄誉広場」(上野公園) こちらで記載
国民栄誉賞受賞者の手形。
「力士像と手形」(国技館通り) こちらで記載
7基の力士像と手形の碑。
「雷電手形石/手形の墓石」(報土寺) こちらで記載
力士雷電の手形石と手形の墓石。
「指塚」(傳通院) こちらで記載
日本指圧協会による建立。
国会通りの歩道に、千代田区町名由来板「内幸町」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 内幸町
この界隈には江戸時代の初期から大名屋敷が置かれていました。安政三年(1856)の絵図にも見られるように、陸奥白河藩阿部家、薩摩鹿児島藩島津家、肥前小城藩鍋島家、大和郡山藩柳沢家、日向飫肥藩伊東家、石見津和野藩亀井家の上屋敷がありました。
明治五年(1872)、阿部家、島津家、鍋島家の上屋敷を合併して内山下町一丁目、柳沢家、伊東家、亀井家の上屋敷を合併して内幸町一丁目となりました。内山下町、内幸町という町名は、山下御門、幸橋御門の内側に位置していたことに由来しています。
明治時代の内山下町一丁目には内務大臣官舎や鹿鳴館、帝国ホテル、内幸町一丁目には東京府庁や社交クラブの東京倶楽部などがありました。
鹿鳴館は明治十六年(1883)、政府によって現在の大和生命保険株式会社(内幸町1-1-7)の場所に建設されました。外国貴賓や政府高官などが集まり、舞踏会や演奏会で賑わいましたが、明治二十七年(1894)、華族会館に払い下げられました。また、東京府庁は同じく明治二十七年(1894)、内幸町一丁目から有楽町二丁目(現・丸の内三丁目)へ移転しました。
昭和十三年(1938)、区画整理により内山下町一丁目と内幸町一丁目の東側が合併して新たに内幸町一丁目となり、内幸町一丁目の西側は内幸町二丁目となりました。かつては上流階級の社交場であったこの町は、戦後、多くの企業が名前を連ねるオフィスビルなどに姿を変えました。
(平成16年6月) 千代田区」
「東京府庁舎」(東京府史行政篇 第1巻 東京府 昭和10年)
説明板に記載の当初の東京府庁舎です。
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩柳沢家の上屋敷を接収し開設されました。
現在は「千代田区立内幸町ホール」があります。
樋口一葉は、明治5(1872)年、東京府庁舎の構内にあった長屋で生まれており、
「内幸町ホール」の前には「樋口一葉生誕地」の案内板が設置されています。(こちらで記載)
その後、明治27(1894)年に丸の内に新たに東京府庁舎が建設されました。(こちらで記載)
当初の東京府庁舎 現在の内幸町ホール
説明板に記載の「東京倶楽部」(コンドル博士遺作集所載 昭和7年)です。
コンドルの設計で明治29(1896)年の築です(現存せず)。
ウィキペディアによると、英国の駐日大使がビクトリア女王に宛てて「日本は紳士が集う社交クラブがない野蛮国」
といった内容の書簡を送ったという情報を聞きつけた明治天皇が、井上馨に命じてつくらせた社交クラブが「東京倶楽部」です。
当初は鹿鳴館内の一室にクラブハウスを置きましたが、鹿鳴館の廃止でコンドル設計の建物が建てられました。
コンドルは東京倶楽部の会員でもありました。
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
大正元年に東京市が発行した地図から、「内山下町」と「内幸町」部分の抜粋です。
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
「内幸町一丁目」部分の拡大です。
「都新聞社」(現在の東京新聞)、「タイムズ社」(ジャパンタイムズ社)が見えます。
現在は、「日本プレスセンタービル」(千代田区内幸町2-2-1:昭和51(1976)年竣工)が建っています。
10階にはレストラン「アラスカ」があります。天高15mの巨大なドーム空間の店内です。
「江戸切絵図」
江戸切絵図から現在の内幸町部分の抜粋です。
御幸通りの帝国ホテル側に設置されている案内板です。
文字情報がとても多いです。
大名小路の記載部分を抜粋します。
愛宕下から丸の内までが日比谷入江を埋め立てた大名小路とのこと。
「約四百年前まで、この帝国ホテルの玄関の辺りは日比谷入江所呼ばれる海岸線でした。
日比谷入江の南北の範囲は現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園、皇居外苑、そして大手町まで続き、一方東西は帝国ホテルの前の日比谷公園を隔てて、外務省などが建ち並ぶ「桜田通り」の西側まででした。
17世紀の初め、徳川幕府は江戸城(現在の皇居)を大規模に拡張するため入江の埋め立てと、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じました。
埋め立てられた入江のうち、愛宕下ー今の港区内ーから丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの260年間にわたって「大名小路」と呼ばれていました。」
○新幸橋 中央区銀座8-2
新幸橋交差点から東へガード下(幸橋架道橋)をくぐると「新幸橋」碑があります。
新幸橋は、昭和4(1929)年に企業等の寄付で外濠に架橋され東京市に寄付されました。
碑には寄付者の名前が刻まれています。
昭和31(1556)年に外濠が埋め立てられ廃橋となりました。
※「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」により、令和4(2022)年9月から解体。
帝国ホテルと日比谷U-1ビルの堺の塀に「鹿鳴館跡」プレートがあります。
鹿鳴館は、ジョサイア・コンドルの設計です。昭和15(1940)年に、取り壊されました。
(プレート説明)
「鹿鳴館跡
ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった
その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった
千代田区」
「東京名所 鹿鳴館」(井上探景(井上安治)明治20年)
ベンチに座っている人が印象的です。
「東京名所帖 鹿鳴館」(井上探景(井上安治)明治20年)
「東京景色写真版 鹿鳴館」(江木商店 明治26年)
「明治大正建築写真聚覧 鹿鳴館」(建築学会編 昭和11年)
「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年 国立国会図書館蔵)
東京市公會堂からみた日比谷附近の展望です。
昭和15(1940)年に取り壊された鹿鳴館と、昭和43(1968)年に取り壊された帝国ホテル旧本館(ライト館)が並んで写っています。
※「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」により、令和4(2022)年9月から解体。
ハートが3つ連なった時計塔です。第一勧業銀行時代のハートのロゴですね。
足下は巨岩がゴロゴロしています。何かの象徴なのか由縁はわかりません。
<明治の頃の日本勧業銀行>
出典:「東京風景」小川一真出版部 明44.4(1911)
<明治大正建築写真聚覧 日本勧業銀行>(建築学会編 昭和11年)
千代田区内幸町に本社がある帝国ホテルや東京電力など10社が、
内幸町一丁目街区開発プロジェクト「TOKYO CROSS
PARK 構想」が進行中です。
内幸町一丁目一番にあるビルはすべて建て替えです。
再開発が終わって、モニュメントはどのように再配置されるのでしょうかね。