○ 丸の内の由来
○ 千代田区町名由来板「丸の内」
○ 丸の内今昔散歩(歴史と文化の散歩道)
○ 大名小路
○ 日本工業倶楽部会館
○ 行幸通り「一丁紐育」
○ 丸の内「一丁倫敦」
○ 丸の内15丁目 (丸ビル)
○ 丸の内ラグビー神社 (丸ビル)
○ 東京府庁舎跡
○ 丸の内シャトルバス
丸の内の地名の由来は、江戸城の内濠と外濠で囲まれた城内であったことにあります
丸の内はもともとは江戸湾の日比谷入江で、日比谷(海苔養殖用のひびに由来)は海苔養殖の中心でした。
天正18(1590)年徳川家康江戸入府の後、埋め立てられ、大名の屋敷地となりました。
江戸時代、武家地には町名はついておらず、一般に大名小路と呼ばれました。
明治の時代となり、明治5(1872)年に「永楽町」「八重洲町」「有楽町」の町名がつけられました。
昭和4(1929)年、丸ノ内一丁目〜三丁目という町名が誕生し、「永楽町」「八重洲町」は消失しました。
昭和45(1970)年、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。
「丸ノ内図」(古図より見たる丸ノ内 三菱合資会社地所部 1929年)
行幸通りに千代田区町名由来板「丸の内」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 丸の内
江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。
明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋は、明治二十年(1887年)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」(『東京の三十年』)
この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な再開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦」ともてはやされるようになりました。
さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。
そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和四年(1929)、丸ノ内一丁目〜三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和四十五年(1970)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。
大手・丸の内町会」
「千代田区町名由来板丸の内」の隣に、「丸の内今昔散歩(歴史と文化の散歩道)」があります。
ルートには標柱が建てられています。
(説明板)
「丸の内の変遷
現在の丸の内は、かつての日比谷入江の東側にあたっており、江戸時代に埋立てられたところである。当時は松平家などの大名屋敷が立ち並び、大名小路と呼ばれていた。明治維新後、屋敷を利用した官庁、兵営地帯となり、さらに明治23年、これらの用地が民間に払い下げられ、日本の著名なビジネス街として生まれ変わった。馬場先通り沿い一帯は、かつてレンガ造りの建物が軒を並べ、一丁ロンドンと呼ばれたこともあった。なお現在の丸ビル街は、東京駅と同様に大正時代に建てられたものである。」
江戸時代、武家地には町名はついておらず、現在の丸の内は一般に大名小路と呼ばれました。
明治の時代となり、明治5(1872)年に「永楽町」「八重洲町」「有楽町」の町名がつけられました。
昭和4(1929)年、丸ノ内一丁目〜三丁目という町名が誕生し、「永楽町」「八重洲町」は消えました。
昭和45(1970)年、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。
「大名小路神田橋内内桜田之図」(江戸切絵図)
江戸切絵図の大名小路を含む絵図と大名小路の抜粋です。
江戸切絵図では、大名家の家紋で屋敷の表門の位置を示しています。
「現在の地図」
「古図より見たる丸ノ内」(三菱合資会社地所部 1929年)
昭和4年の丸ノ内町名地番改称記念に、三菱地所部が発行した「古図より見たる丸ノ内」からの抜粋です。
「寛政八年」 「明治十一年」 「大正十二年」震災ニヨル焼失区域
「昭和二年」
「丸ノ内新町名圖」昭和四年四月十五日改稍 「丸ノ内舊町名圖」 出典
<現在の大名小路>
「丸の内ビルディング」「新丸の内ビルディング」の東側を南北に通る都道は、「大名小路」が愛称として使用されています。
新丸の内ビルディング前の標識
案内図に表示されている大名小路(赤線が大名小路)
<日本工業倶楽部会館> 千代田区丸の内1-4-6 国有形文化財
日本工業倶楽部会館は大正9(1920)年11月に竣工しました。
老朽化による建て替えで、会館の南側部分が保存され平成15(2003)年3月に竣工しました。
正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にし、当時の二大工業石炭と紡績を示しています。
「日本工業倶楽部会館」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11年)
<日比谷入江と大名小路>
日比谷入江の南北は、現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園、皇居外苑、そして大手町まで続いていました。
徳川幕府は日比谷入江の埋め立てと、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じました。
埋め立てられた入江のうち、愛宕下(現在の新橋赤レンガ通り)から丸の内までの範囲は、
多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの260年間にわたって「大名小路」と呼ばれていました。
「愛宕ノ下大名小路」(江戸切絵図)
東京駅の開業にあわせ、大正3(1914)年に「行幸道路」(行幸通り)は開通しました。
アメリカ式のビルが建ち並び、明治期の「一丁倫敦(ロンドン)」の街並みに対し「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれました。
行幸通り(西から東京駅方向) 丸の内ビルディング
「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年 国立国会図書館蔵)
(左上)行幸道路の右は郵船ビル、左は海上ビル。
(右上)丸の内ビルディング。通勤者約4千人、事務所數361。
(左下)郵船ビル。
(右下)海上ビル。
○行幸地下ギャラリー 千代田区丸の内1丁目 HP
行幸地下ギャラリーは、東京駅と内堀通りとをつなぐ地下通路にあるギャラリーです
行幸通りの全長約200mの歩行者専用道路の整備に伴い、地下通路が2007年春に開通しました。
地下通路の両脇には、全長220mにわたって「行幸地下ギャラリー」が設置されています。
イベント展示が行われていない期間には、常設展示として、丸の内界隈を紹介する写真パネルが展示されています。
江戸時代は大名屋敷が建ち並んでいた大名小路ですが、明治維新以降は、陸軍の軍用地として使われます。
明治政府は軍備の拡張を図るため、軍部を移転することを決定します。
移転費用は、丸の内一体を払い下げることで捻出することにしました。
しかし入札は不落に終わり、岩崎弥之助が率いる「三菱社」が引き受けることになりました。
明治23(1890)年、「三菱社」は丸の内一帯を買い受けました。軍の施設が移転していく中で丸の内は原野となり「三菱ヶ原」と呼ばれました。
「三菱社」は、「三菱ヶ原」に明治44(1911)年までに13棟のビルを建設しました。
赤レンガ造りの建物が並ぶエリアは、街区が100メートル(1丁)だったことから、「一丁倫敦」とも呼ばれました。
「岩崎弥之助肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
嘉永4年1月8日〜明治41年3月25日(1851年2月8日〜1908年3月25日)
三菱財閥2代目。初代の岩崎弥太郎の弟。
「丸の内全景」(東京風景 小川一真出版部 明治44年)
中央にジョサイア・コンドル設計の「第一号館」が見えます。まだ空地の「三菱ヶ原」が見えます。
三菱財閥はコンドルを支援しました。
「日本風景風俗写真帖」(小川一真 明治43年)
日本語タイトルは「八重洲町通」で、英語タイトルは「A
new street looking toward the Imperial Palace, in Tokyo.」
馬場先門から東へ「三菱ヶ原」の中を抜けて、右手の東京府庁に至る道が開通「八重洲町通」と名付けられたようです。
写真右手に馬水槽が見えます(こちらで記載)。
「ジョサイア・コンドル」(丸ノ内今と昔 富山房 昭和16年)
「コンドル博士遺作集」(コンドル博士記念表彰会 昭和7年)
三菱第一号館、三菱第二号館(表示が逆になっています)
コンドル肖像と墓(護国寺)、博士銅像除幕式(東京大学)
(参考)
「コンドルまとめ」
「三菱一号館美術館」の赤煉瓦の建物は、三菱社が明治27(1894)年に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したものです。
「一号館広場」から見た「三菱一号館美術館」です。
美術館は2023年4月10から2024年秋までメンテナンスのため休館中です。
受付におられたというコンドル像には会えませんでした。
(説明板)
「三菱一号館
三菱一号館は1894年(明治27年)に竣工した丸の内で最初のオフィスビルです。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる設計で、ヴィクトリア時代におけるクイーンアンスタイルの煉瓦造3階地下1階建ての建物でした。丸の内では、三菱一号館にはじまり、次々に煉瓦造のオフィスビルが建設され、その街並みは「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれ親しまれました。しかし、戦後の高度経済成長のなか、丸の内の赤煉瓦建築は次々と近代的なオフィスビルに建て替えられ、三菱一号館も竣工から74年後の1968年(昭和43年)に解体されました。2009年、41年の時を経て三菱一号館が当初と同じ場所に、可能な限り忠実に復元されました。
三菱一号館復元の経緯、丸の内の歴史について「歴史史料室」(当館1階)にてご紹介しております。是非お立ち寄りください。
【歴史史料室】10時〜18時(月曜休館、臨時休業有)」
「三菱第一号館」(コンドル博士遺作集 コンドル博士記念表彰会 昭和7年)
ラグビーワールドカップ2019(9/20-11/2)のオフィシャルスポンサーを務める三菱地所が、
丸の内15丁目プロジェクトを始動しています。
2023年8月7日設置。
前回の2019年の設置と同様、期間限定で10月末までの設置です。
都庁が新宿に移転するまで、ここが都庁所在地でした。
(説明板)
「東京都指定旧跡「東京府庁舎跡」
所在地 東京都丸の内三の五の一
指定 昭和30年3月28日(旧跡)
所有 東京都(産業労働局)
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設され、その後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。
1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市と東京府が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。
1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。かつて、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。」
「東京府庁」(東京府史行政篇 第1巻 東京府編 昭和10年)
「東京府庁」(最新東京名所写真帖 明治42年)
無料巡回バスがめぐっています。
日比谷通りを北から南に、晴海通りを通り、大名小路へ。
大名小路を南から北へ大手町へ。日比谷通りへ戻ります。