Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 伝通院

  ○山門
  ○境内
  ○墓地
   ・参拝図
   ・於大の墓
   ・4基の墓碑(初姫の墓ほか)
   ・於奈津の方の墓
   ・千姫の墓
   ・6基の墓碑(孝子の墓ほか)
   ・千姫墓裏3基の墓
   ・松平利綱と正室の墓など
   ・歴代上人の墓
   ・著名人墓地
   ・佐藤春夫の墓


傳通院 文京区小石川3-14-6

 寛永寺と増上寺の徳川家墓所は、子女の墓が改葬・合祀されていますが、
 傳通院の墓所は、徳川宗家の所有ではなく、傳通院の所有だったのでしょうか?
 売られることなく、昔ながらに保たれているようです。

「江戸名所図会 伝通院」

  

「絵本江戸土産 礫川伝通院」(広重)

  

山門>

     

<不許酒葷入門内>

 山門前左手に説明板があります。

(説明板)
「浪士隊結成の処静院跡の石柱  伝通院 小石川三ー十四ー六
 この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。
 石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。
 処静院は、その後、廃寺となった。
 文久三年(一八六三)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織ー“浪士隊”の結成大会が処静院で行なわれた。
 山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢二五○人、その後、浪士隊を離れて、新撰組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。
 一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。
   東京都文京区教育委員会  平成元年三月」

   

<新徴組発会の処静院跡/幕末の傑僧琳瑞上人>

 山門前左手に説明板があります。

   

境内>

  

<鐘楼堂>

 梵鐘は、戦時中、供出にあわず、よく残りましたね。

  

<仏足石>

  

<供養塔>

  

<橋本徳壽の歌碑>

 「春いまだ さわがしからぬ 空のいろに
  辛夷の花は 白く咲きたり  徳壽」

   

<法蔵地蔵尊>

  

指塚/物故指聖供養塔>

 日本指圧協会が昭和45年9月に建立。

    

<古泉千樫の歌碑>

 「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなき姿なりけり 千樫山人」

   

<水町京子の歌碑>

 「わがこころの林泉のかへではやくるなくしばらくあるをあわれといはむ」

  

<本殿>

   

境内・墓地参拝図>

   

    

  [一] お大の方(徳川家康公の生母)
      法名 傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼
  [二] 千姫(二代目秀忠長女)
      法名 天樹院殿栄誉源法松山大禅定尼
  [三] 亀松君(三代家光次男)
      法名 月渓院殿華屋尊英大童子
  [四] 孝子(三代家光正室)
      法名 本理院殿照誉円光徹心大禅定尼
  [五] 於奈津(家康公側室)
      法名 清雲院殿心誉光質大禅定尼
  [六] 歴代上人墓
  [七] 了誉聖冏上人(浄土宗第七祖・傳通院開山)
      法名 酉蓮社了誉上人繊月禅師聖冏大和尚
  [八] 清河八郎(幕末勤王の志士)
      法名 清秀院忠王明義居士
  [九] 佐藤春夫(詩人・作家)
      法名 凌雲院殿詞誉紅精春日大居士
  [十] 高畠達四郎(洋画家)
      法名 玄相院殿達誉和雅悟道大居士
 [十一] 澤 宣嘉(都指定旧跡)
      幕末七卿落ちの一人
 [十二] 橋本明治(日本画家)
      法名 宝蔵院殿精誉浄勳明治大居士
 [十三] 柴田錬三郎(作家)
      法名 蒼岳院殿□誉円月錬哲大居士
 [十四] 簡野道明(漢学者)
 [十五] 古泉千樫(歌人)
 [十六] 杉浦重剛(評論家・教育家)
 [十七] 藤井紋太夫(水戸家重臣)
 [十八] 宣教師ジョセフ岡本三衛門神父供養碑

於大の墓

 「伝通院殿容誉光岳智香大禅定尼」
 徳川家康の母の墓です。

    

    

(説明板)
「於大の墓 (区指定文化財)
 享禄元年ー慶長七年(一五二八ー一六○二)徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主水野忠政の娘、天文十年(一五四一)岡崎城主松平広忠と結婚、翌年家康を生む。
 後に離婚して阿古屋城主久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
 法名、伝通院殿容誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。
  東京都文京区教育委員会 昭和62年3月」

  

<徳川家康の母 於大の方の生涯>

  

【於大の方の墓の右手に連なる4基の墓碑です。右から順に記載】

  

○興安院殿の墓

 「興安院殿豊誉天清陽山大姉」
 寛永8(1630)年没。
 秀忠の四女初姫の墓です。
 大きな五輪塔です。

   

〇松寿院殿の墓

 「松寿院殿桃誉栄紅大姉」「寶永七年五月四日」
 
  

〇貞松院殿の墓

 「貞松院殿照誉高月大姉」
 寛文7(1667)年没。
 姫路藩2代藩主本多政朝室。

  

〇大誓院殿の墓

 「大誓院殿心誉寿栄大禅定尼」
 承応3(1654)年没。
 徳川家康養女。大垣藩主戸田氏鉄室。

  

於奈津の方の墓

 他の子女の墓から離れた墓地手前にあります。

 「清雲院殿心誉光質大禅定尼」
 家康の晩年に側室になり駿府城に入る、家康の死後に江戸城三の丸屋敷に入る。
 万治3年(1660)80歳で逝去。

   

千姫の墓(区指定史跡)

 「天樹院殿栄誉源法松山大禅定尼」
 千姫(二代目秀忠長女)の墓です。墓地の奥にあります。

    

    

(説明板)
「千姫の墓(区指定史跡)
 慶長二年ー寛文六年(一五九七ー一六六六)二代将軍秀忠の娘。慶長八年(一六〇三)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城に入った。
 元和元年(一六一五)城を出て翌年桑名城主、本多忠政の子、忠刻と再婚するも、死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。
  東京都文京区教育委員会 昭和62年3月」

  

【墓地最奥にある6基の墓碑です。右手から順に記載】

〇隆崇院殿の墓

 「隆崇院殿理郭良智大禅定尼」
 甲府宰相綱重室。寛文9(1669)年没。

 ※綱重の墓は、現在は増上寺に合祀されています。
 ※6代将軍家宣が、父である徳川綱重の正室であった隆崇院の追善供養のために建立した寺が
  品川区大崎にある隆崇院です。

    

〇智幻院殿の墓

 「智幻院殿露月涼華大童子」
 六代将軍家宜の次男家千代。宝永4(1770)年没。

    

〇孝子の墓(区指定史跡)

 「本理院殿照誉円光徹心大禅定尼」
 三代家光の正室「本理院殿」の墓です。

   

(説明板)
「孝子の墓 (区指定史跡)
 慶長七年〜延宝二年(一六〇二〜一六七四) 孝子は三代将軍徳川家光の正室、前関白鷹司信房の娘、元和九年(一六二三)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。寛永二年(一六二五)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。
  東京都文京区教育委員会 平成二年三月」

  

〇貞鑑院殿の墓

 「貞鑑院殿性誉円明浄覚大姉」
 十一代将軍家斉十五女元姫。
 文政4(1821)年没。

   

〇浄門院殿の墓

 「浄門院殿暁覚幻夢大童子」
 十一代将軍家斉の十五男久五郎。(HPは15男、標柱は20男)
 文化14(1817)年没。

    

〇正雲院殿の墓

 「正雲院殿皓月曜心大童女」
 八代将軍吉宗の二女芳姫。
 生後2か月で夭折。享保7(1722)年没。

    

千姫(天樹院殿)の裏に連なる3基の墓です。右から順に記載】

  

〇月渓院殿の墓

 「月渓院殿華屋尊英大童子」
 三代将軍家光二男 亀松。
 正保4(1647)年没。

    

〇理岸院殿の墓

 「理岸院殿月光秋華大童子」
 六代将軍家宜三男大五郎。
 宝永7(1710)年没。

    

〇知法院殿の墓

 「智法院殿栄誉本香良薫大童女」
 尾張徳川家三代藩主徳川綱誠十四女嘉知姫。
 元禄11(1698)年没。

   

松平利綱と正室の墓など>

 他にも多くの子女などの墓が連なっています。
 松平利綱正室玉照院殿は、徳川家康の落胤説のある松平康重の娘。

  

歴代上人の墓

  

著名人墓地】

 著名人の墓地の一部です。

〇沢宣嘉の墓 東京都旧跡

(説明板)
「沢宣嘉の墓
 天保六年ー明治六年(一八三五ー一八七三)。公卿。政治家。三条実美らとともに尊攘派公卿として活躍も文久三年八月十八日の政変による尊攘派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡。
 のち、明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した。
  昭和十四年 都指定「旧跡」
  平成元年三月 東京都文京区教育委員会」

   

〇杉浦重剛の墓

(説明板)
「杉浦重剛の墓 安政二年ー大正十三年(一八五五ー一九二四)
 滋賀県の生まれ。幼名を謙次郎。号は梅窓または天台道士。
 明治三年東京大学南校に入学。明治九年英国に留学する。明治十八年東京英語学校を創立した。
 後年、国学院学監。皇典講究所幹事長。東亜同文書院長などをつとめ、大正三年(一九一四)東宮御学問所御用掛となった。
 明治・大正時代の教育者、評論家としての活躍は著名である。
  平成元年三月  東京都文京区教育委員会」

    

「杉浦重剛肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  安政2年3月3日〜大正13年2月13日(1855年4月19日〜1924年2月13日)

  

佐藤春夫の墓

(説明板)
「佐藤春夫墓
 明治二五年〜昭和三九年(一八九二〜一九六四)。
大正・昭和期の詩人・小説家。和歌山県の生まれ。明治四三年(一九一○)上京し、与謝野寛の新詩社に入り、永井荷風をしたって慶應義塾大学に学ぶ。はじめ叙情詩人として出発したが、のちに耽美主義の影響を受けて大正八年(一九一九)小説「田園の憂鬱」を発表し好評を博し小説家として独自の地位を確立した。
 古典的な詩人としては、大正以降の第一人者である。芸術院会員となり、文化勲章を受け、区内関口三丁目の自宅で没した。文京区歌の作詞者でもある。
  文京区教育委員会  平成三年三月」

     

「佐藤春夫肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  明治25(1892)年4月9日〜昭和39(1964)年5月6日

  

(参考)
 「文化学院」(神田)
 「佐藤春夫の詩碑」(慶應義塾)
 「当地ゆかりの文人達」(本郷)

○その他

 葵の紋のある立派な墓所。詳細がわからず気になります。

  


戻る