○ 菊坂通り
・菊坂
・旧町名案内旧菊坂町
・本郷文学散歩
・文の京一葉文学のまち
・当地ゆかりの文人達
○ 本妙寺坂
・菊坂界隈文人マップ
・真砂遺跡
・本妙寺と明暦の大火
・第四(本妙寺)校跡
・近代文学発祥の地本郷
・本郷菊富士ホテルの跡
・赤心館跡 別頁
○ 別れの橋跡・見送り坂と見返り坂
○ 東大下水(菊坂支流)
○ 旧町名案内「旧本郷」
○ 旧町名案内「旧森川町」
○ 樋口一葉ゆかりの地 別頁
○ 石川啄木ゆかりの地 別頁
本郷通りと春日通りが交わる「本郷三丁目」交差点から本郷通りを東大赤門へ70mほど進むと、「菊坂通り」が北西へ延びています。
本郷四丁目と本郷五丁目の境を下り、言問通りとの交差点「菊坂下」へと至ります。
本郷通り側 長泉寺の参道手前 旧伊勢屋質店前 菊坂下
菊坂に面した長泉寺の参道入口右手に説明板「菊坂」が設置されています。
(説明板)
「菊坂 本郷四丁目と五丁目の間
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。
寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
樋口夏子(一葉)
文京区教育委員会 平成11年3月」
菊坂に面した長泉寺の参道入口左手に「旧町名案内旧菊坂町」があります。
「旧町名案内
旧 菊坂町(昭和40年までの町名)
この辺一帯に菊畑があり、菊の花を作る人が多く住んでいた。それで坂を菊坂、坂上の方を菊坂台町、坂下の方を菊坂町と名づけたという。
寛永5年(1628)中間方の拝領地となり、その後町屋を開いたが、その時期は元禄9年(1696)ころといわれる。
台地上に振袖火事(明暦大火とも、1657)の火元で有名な本妙寺があった。寺内の墓地に、“遠山の金さん”(遠山景元)の墓があった。明治43年寺は巣鴨へ移った。
坂下通りには、“たけくらべ”の作家樋口一葉が、父の死後18歳で母と妹の3人で、移り住んだ旧居跡がある。針仕事や洗張りで生計を立て、厳しい勉学に励み、小説
を書き始めた。使った掘抜井戸がいまも残っている。 文京区」
「菊坂通り」にある「本郷文学散歩」です。
「文の京 一葉文学のまち
文京区観光協会 文京区 平成16年11月」 文京区本郷5-1
「菊坂通り」に樋口一葉の紹介パネルがあります。
菊坂通りの街灯には、「当地ゆかりの文人達」の紹介プレートが掲げられています。
【菊坂通り北側】 文京区本郷5丁目
樋口一葉 明治 5年-明治29年
谷崎潤一郎 明治19年-昭和40年
宮沢賢治 明治29年-昭和 8年
菊池寛 明治24年-昭和23年(※掲示の「菊地」は誤謬)
石川啄木 明治19年-明治45年
夏目漱石 慶応 3年-大正 5年
芥川竜之介 明治25年-昭和 2年
正岡子規 慶応 3年-明治35年
竹久夢二 明治17年-昭和 9年
宇野浩二 明治24年-昭和36年
【菊坂通南側】 文京区本郷4丁目
宇野千代 明治30年-平成 8年
広津和郎 明治14年-昭和43年
真山青果 明治11年-昭和23年
坪内逍遥 安政 6年-昭和10年
大杉栄 明治18年-大正15年
坂口安伍 明治39年-昭和30年
佐藤春夫 明治25年-昭和39年
若山牧水 明治18年-昭和 3年
石川淳 明治32年-昭和62年
久米正雄 明治24年-昭和27年
直木三十五 明治24年-昭和 9年
宮本百合子 明治32年-昭和26年
尾崎士郎 明治31年-昭和39年
徳田秋声 明治 4年-昭和18年
本妙寺は巣鴨に移転していますが、本妙寺坂にその名をとどめています。
本郷台地から菊坂へ下っている坂が本妙寺坂です。
菊坂からはかつて本妙寺のあった本郷丸山へ上っていく坂があります。
本妙寺坂にある男女平等センター前に、
「菊坂界隈文人マップ」(文教育教育委員会 平成17年3月)が掲示されています。
同じ場所に掲示されている「真砂遺跡」です。
(説明板)
「真砂遺跡 本郷4-8-3
“文京区男女平等センター”の建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。
現在の建物を建築するにあたり、昭和59年に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができた。この遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名した。
出土品で最も多かったのは、生活用具としての陶磁器であったが、文京区内では非常に珍しい1万8千年位前に使われたと思われる黒曜石の矢じり、18世紀にオランダでつくられた土製のクレイパイプなどが発見された。遺構としては、火災の時の荷物の避難場所、あるいは酒やみその発酵場所と考えられる40に及ぶ地下室、千川上水を引き込んだ上水道遺跡等が発掘され、多大な成果を収めた。
東京都文京区教育委員会 平成元年3月」
○本妙寺と明暦の大火など 文京区本郷5-18-2プラウド本郷前
菊坂から本妙寺跡に続くプラウド本郷前の坂道に、二基の説明板が建てられています。
<本妙寺跡と明暦の大火>
(説明板)
「本妙寺跡と明暦の大火 文京区本郷5-16あたり
本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。
境内には北町奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所があった。
明暦3年(1657)の大火“振袖火事"の火元とされているが原因には諸説がある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷なとが多く移転してきて、漸次発展することとなった。
私立女子美術学校菊坂校舎跡
この地に、明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校【現女子美術大学・同短期大学:創立明治33年(1900)本郷弓町】・佐藤高等女学校【現同大学付属高等学校・中学校:創立大正4年(1915)】の菊坂校舎が建設された。特に女子を対象とした美術教育の専門学校として、画期的な役割を果たしたが、さらに大規模な校地を求め、昭和10年(1935)現杉並区和田へ移転した。
文京区教育委員会 平成12年3月」
「江戸切絵図」
本妙寺部分の抜粋です。
(説明板)
「公立小学校のさきがけ
第四(本妙寺)校跡 本郷5-16・17
明治5年(1872)、近代教育制度の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は、明治3年(1870)6月、市内に六つの小学校を開設した。
最初の公立小学校である。そのうちの1校が、この地(旧本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
この小学校は、中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を授けた。そのため程度も高く、主に漢籍を教授した。
開校当時の生徒数は不詳であるが、職員は7名であった。
翌4年(1871)12月、文部省直轄の「共立学校」となり、近くの麟祥院(旧龍岡町)境内に移った。今日の湯島小学校の前身である。
東京都文京区教育委員会 平成元年11月」
マンションの柱にプレート「近代文学発祥の地 本郷」が掲げられ、
他4枚の銅板プレートが設置されています。
(プレート文)
「近代文学発祥の地本郷
近隣に住んだ人々
樋口一葉 宇野浩二
石川啄木 広津和郎
坪内逍遥 伊藤野枝
徳田秋声 高田保
宮沢賢治 宇野千代
二葉亭四迷 尾崎士郎
竹久夢二 宮本百合子
大杉栄 石川淳
谷崎潤一郎 月形竜之介
直木三十五 坂口安吾 他」
「生きのびて又夏草の目に沁みる 秋声」
「文学は藝術である 逍遥」
「東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたわむる 啄木」
「蔵のうちに はるかくれ行
ころもがえ 一葉」
坂を北へ上り詰めた左手の小路へ入った突き当り左手に、
「本郷菊富士ホテルの跡」の碑があります。
(碑文)
「本郷菊富士ホテルの跡
昭和五十二年八月吉日
羽根田富士雄
羽根田 孝夫
羽根田 武夫」
「由来
明治三十年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助菊江の両親が此の地に下宿菊富士楼を開業し大正三年五層楼を新築菊富士ホテルと改名し営業を続けたが昭和二十年三月十日第二次大戦の戦災に依り五十年の歴史を閉じた此の間菊富士ホテルに止宿した内外の文学芸術思想医科学政治経済各界に亘り多くの逸材を輩出近代日本の歩みに曙光を放ちその名を今日に及ぶ この菊富士ホテルの名を永く記念する」
「主な止宿者
石川淳 宇野浩二 宇野千代 尾崎士郎 坂口安吾 高田保 谷崎潤一郎 直木三十五広津和郎 正宗白鳥 真山青果 竹久夢二 三木清 中條百合子 湯浅芳子 大杉栄 福本和夫 伊藤野枝 三宅周太郎 兼常清佐 菅谷北斗星 下村海南 青木一男 小原直 月形龍之介 片岡我童 石井漠 伊藤大輔 溝口健二 高柳健次郎 エドモンド・ブランデン セルゲイ・エリセーエフ 敬称略順不同」
<菊坂通りプレート> 文京区本郷5-1
(プレート文)
「本郷菊富士ホテル 大正三年より昭和十九年
この坂を下って二百米ほど先、右側の坂を上り詰めた辺りにあったこのホテルは大正三年に上野公園で開催された博覧会に来日する外国人を目当てに建てられて、博覧会終了後は何時の間にか高級下宿に変身ひとかどの人物が次々と宿泊した。終業までの三十年間にここを仕事場としていた人達には谷崎潤一郎、竹久夢二、尾崎士郎、直木三十五、宇野浩二、三木清、大杉栄、坂口安吾、宮本百合子、高田保、広津和郎、宇野千代、石川淳等々枚挙にいとまがない。おそらくのこ辺りを彼らが闊歩していた事であろう。日本の近代文学を語る上で忘れてはならない場所である。」
(プレート文)
「当地ゆかりの文人達
谷崎潤一郎 明治一九年〜昭和四十年 菊富士ホテルに止宿
明治四四年永井荷風に激賞され二六歳で作家としての地位を確立。大正八年ごろから本郷菊富士ホテルを仕事場にしていた。やがて潤一郎の千代子夫人に対する一方的なわがまま行為に同情した友人の佐藤春夫と夫人は結婚することとなる。この時期夫人の妹に対する恋愛も含めて彼の心は苦悩の嵐であった。主な作品は刺青、痴人の愛、蓼食う虫、春琴抄、細雪、少将慈幹の母、鍵、など女性崇拝的な独特の世界を築いている。」
(プレート文)
「当地ゆかりの文人達
佐藤春夫 明治二五年〜昭和三九年 菊富士ホテル滞在の谷崎潤一郎をしばしば訪問
中学時代から文学を好み荷風を慕って慶応に入る。古風なスタイルの中に近代的知性をしのばせる豊かな抒情詩で注目を集めた。谷崎潤一郎の夫人と結婚後次第に古典への関心を深めた。主な作品は西班牙犬の家、田園の憂鬱、晶子曼陀羅、都会の憂鬱など。」
菊坂通りの入口近く、本郷通りに面した歩道に説明板「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂」が設置されています。
太田道灌の頃、ここは領地の境目で、江戸を追放される者が「別れの橋」で放たれました。
橋から南側の坂を「見送り坂」、北側の坂を「見返り坂」といいました。
『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』
江戸時代に兼康祐悦が売り出した乳香散(歯磨き粉)が流行した「かねやす」は本郷3丁目交差点にありました(閉店)。
(説明板)
「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂 本郷4-37先本郷通り
「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・太田道灌(1742〜86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
文京区教育委員会 昭和59年3月」
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
大正元年に東京市が発行した地図から、「別れの橋跡」「見送り坂」「見返り坂」部分の抜粋です。
大正元年に東京市が発行した地図から、「本郷四丁目」及び「菊坂町」の2つの地図を合成した「東大下水(菊坂支流)」の抜粋です。
加賀藩上屋敷から流れ出た「東大下水(菊坂支流)」は、見送り坂と見返り坂の間を「別れの橋」下で横切り、菊坂の二の谷を流れ下っていました。
別れの橋は見当たりませんが、菊坂の南側に沿った流れが、現在の菊坂下道に続いています。
<菊坂下道> 文京区本郷4丁目
旧川筋です。
(説明板)
「旧町名案内 旧本郷 (昭和40年までの町名)
『御府内備考』に次の記事がある。
本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。
江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(1661〜73)には、1丁目から6丁目まで分れていた。
中山道(現・本郷通り)の西側に沿って、南から1〜6丁目と南北に細長い町城である。
本郷もかねやすまでは江戸の内(古川柳)
御守殿が出来て町家もかたはづし 文京区」
交差点「本郷弥生」に設置されている「旧町名案内 旧森川町」です。
(説明板)
「旧町名案内 旧森川町(昭和41年までの町名)
江戸時代は森川宿と称した。明治5年に岡崎藩主本多家の屋敷と、先手組屋敷と併せて森川宿から森川町と名づけた。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備にあたった。与力はたいてい森川氏の親族で同じく森川姓を称していたので森川宿といわれた。宿とは当時中山道の建場であったからである。建場とは、馬建場で人馬の休むところであった。
森川町の中心に、本田平八郎忠勝を祭る映世神社があったが、戦後廃社となった。
町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。 文京区」