○ オープンキャンパス
○ 図書館旧館/展示館 国重要文化財
○ 文学の丘
・吉野秀雄の歌碑
・佐藤春夫の詩碑
・久保田万太郎句碑
・小山内薫の胸像(朝倉文夫作)
○ 還らざる学友の碑
○ 平和来(朝倉文夫作)
○ 三田演説館 国重要文化財
慶應義塾大学三田キャンパスへ、オープンキャンパス2023が実施されていました。
赤煉瓦建築の東門から塾内にはいると目の前に図書館旧館八角塔(国重要文化財)がそびえています。
オープンキャンパス2023のパンフレットです。
慶應義塾創立50周年を記念して明治45(1912)年に竣工しました。
(説明掲示)
「重要文化財 慶應義塾図書館
この建物は義塾創立五十周年を記念し明治四十五年四月、工学博士曽禰達蔵、工学士中條精一郎両氏の設計監督によって完成したもので、外国人の手を全く借りずに造られた洋風煉瓦館としては一級品である。震災、戦災による被害を修復し、今日なお当初の遺構を留めている。煉瓦建築の少ない我が国にあって、建築史上貴重な存在である。
様式 ゴシック式
建築面積 六八四・四平方メートル
昭和四十四年三月十二日 指定」
<福沢諭吉記念慶應義塾史展示館>
国重要文化財の図書館旧館の2階に展示室があります。
入館無料です。館内写真撮影可ですが、あまりの多くの人手でステンドグラスのみ撮影。
<慶應義塾図書館ステインドグラス>
入口ホールの階段上を飾るステンドグラスです。
女神がペンを手にして入ってくるところ、鎧武者が白馬を降りて迎えています。
「Calamvs Gladio Fortior」(ペンは剣よりも強し)と、ラテン語で記されています。
戦災で焼失後、昭和49年(1974)に復元されました。
(説明板)
「慶應義塾図書館ステインドグラス
このステインドグラスは大正4年(1915)制作された原型を今に復元したものである。即ち当初画伯和田英作の構図を下に、技師小川三和が完成したが、昭和20年(1945年)戦火で失われていたものを、小川技師の薫陶を受けた大竹龍蔵の遺作再現の切なる願いとその技法によって、昭和49年(1974)11月新らたに復元した。
下部のラテン文 Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)とあるように、義塾建学の精神をこの構図は象徴している。因にラテン文の左右にはローマ数字で義塾創立の年(1858)とこの図書館建設の50年記念の年(1907)が記されている。
鷹さ 6.45メートル 幅 2.61メートル」
赤レンガの図書館旧館八角塔と東門の間の通路を進むと、
右手に小高い丘(通称「文学の丘」)に小山内薫の胸像とともに三つの文学碑が建っています。
佐藤春夫の詩碑、吉野秀雄の歌碑、久保田万太郎の句碑です。
昭和47(1972)年7月1日、吉野秀雄の7回忌に大正14年卒業の同期の友人たちによって建てられました。
(碑文)
「図書館の前に
沈丁咲くころは
恋も試験も
苦しかりにき
吉野秀雄」
昭和49(1974)年、佐藤春夫の歿後10年を記念して詩碑が建てられました。
碑の前の筆塚には春夫遺愛の万年筆が納められています。
(碑文)
「さまよひ来れば 秋草の
ひとつ残りて 咲きにけり
おもかげ見えて なつかしく
手折ればくるし 花散りぬ
佐藤春夫」
(参考)
「藤春夫の墓」(伝通院) こちらで記載。
久保田万太郎の没後10年にあたる昭和48(1973)年5月9日に句碑の除幕式が行われました。
久保田自身の筆跡で、学生時代に受けた小山内薫の講義を偲んでの句が刻まれています。
(碑文)「小山内先生をおもふ
しぐるゝや大講堂の赤れんが」
(碑陰)
「久保田万太郎は東京浅草の生れ 三田に學んで永井荷風小山内薫らを師とした 早く作家として世に出て以来、独自な文人として生涯渝ることがなかった 晩年著作權の一切を母校に寄託し、忽焉として逝った 慶應義塾は記念基金を設けてその遺志を傳え、今、歿後十年を機として句碑を建てた
その句
小山内先生をおもふ
しぐるゝや大講堂の赤れんが
昭和四十八年五月」(池田弥三郎の撰文)
文学の丘の一番上に、朝倉文夫作の小山内薫の胸像が建っています。
この胸像は、昭和33(1958)年に、小山内薫歿後30年を記念して造られました。
ひとまず歌舞伎座に置かれましたが、昭和39(1964)年年8月1日に三田に移されました。
小山内薫の授業を偲んだ久保田万太郎の句碑が近くに建っています。
(碑陰)
「小山内薫先生逝きて三十年
友人門弟相集り朝倉文夫氏に
嘱してこの像を建つ
昭和三十三年十二月十五日」
「明治14年7月26日生
昭和3年12月25日歿
昭和39年8月1日ここに移す
慶應義塾」
「小山内薫肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」
明治14(1881)年7月26日〜昭和3(1928)年12月25日
【塾監局エリア】
戦没学友を偲ぶ碑で、平成10(1998)年に設置。
(碑文)
「還らざる友よ
君の志は
我らが胸に生き
君の足音は
我らが学び舎に
響き続けている」
(碑裏)
「還らざる学友の碑
この碑は今次大戦において志半ばにして逝った
学友を偲び慶応義塾が建立する
平成十年十一月 慶応義塾塾長 鳥居泰彦」
(碑横)
「ここには
「アジア太平洋戦争における
慶應義塾関係戦没者名簿」
(白井厚編 慶應義塾福澤研究センター発行)
が納められています
平成二十六年十月 慶應義塾」
昭和27(1952)年、朝倉文夫作で、昭和32(1957)年に設置されました。
(台座銘)
「平和来 朝倉文夫作」
「丘の上の平和なる日々に
征きて還らぬ人々を思ふ
小泉信三 識」
(説明板)
「朝倉文夫 平和来
1952年 ブロンズ
1932年卒業生有志寄贈
明治期から戦後まで活躍した彫刻家朝倉文夫の第8回日展出品作品で、円熟した裸体表現に作者の力量がうかがわれる。この像は、「平和来」というタイトルにふさわしく、戦没塾員の霊を慰める趣旨で1957年に寄贈された。台座には、戦時中塾長であった小泉信三の碑文が刻まれている。若々しい青年の姿は、還らぬ尊い命を偲ぶとともに、新しい平和の時代に未来を担うべき者たちを励ますようにキャンパスの学生をみつめている。」
<福沢諭吉胸像>
福沢諭吉胸像は、事前に調べたところ図書館旧館前にあると思ったらありません。
図書館旧館で学生に聞いたら演説館入り口にあるとのこと、親切に案内板のところで場所を説明していただきました。
柴田佳石作(1953年)の福沢諭吉胸像です。
福沢は銅像を造られるのを嫌っていたため没後も長く銅像は造られませんでした。
戦後に初めて造られた銅像で、最もよく生前の面影を伝えているとされています。
「福沢諭吉肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保5年12月12日〜明治34年2月3日(1835年1月10日〜1901年2月3日)
<三田演説館> 国重要文化財
三田演説館は明治8年に造られました。speechを「演説」、debateを「討論」と訳したのは福澤諭吉です。
公開されていたので中に入りました。涼しいですね。
演説館内には、「福沢諭吉肖像画」(松村菊麿作(1937年))が掲げられています。
普段は一般見学不可ですが、オープンキャンパスのイベントで公開されていました。
<三田演説館碑>
演説館を説明する石碑です。昭和22年5月の建立です。
(碑文)
「三田演説館
此ノ演説館ハ明治八年五月一日福澤先生ガ世ニ率先シテ演説ノ法ヲ普及センガ為ニ創建サレタル我國最初ノモノニシテ大正四年東京府ノ史蹟ニ指定サル コレハ始メ慶応義塾塾監局建物ノ北端に位置セルモ大正十三年火災ノ危険ヲ慮リ稲荷山ノ丘上ニ移サレ幸ニ太平洋戦ノ災禍ヲモ免ルルヲ得タリ 然ルニ荒廃既ニ久シキヲ以テ幼稚舎同學ノ四四會有志相謀リ之ガ修復ニ及ベリ 本館ニ関シ先生ノ曰ク「慶応義塾の演説館は其規模こそ小なれ日本開闢以来最第一着の建築國民の記憶に存す可きものにして幸に無事に保存することを得ば後五百年一種の古跡として見物する人もある可し」ト 爾来僅ニ半世紀ニシテ日本文化史ノ一頁ヲ飾ル歴史的建物ノ一ニ數ヘラルルニ至ル 洵ニ先生ガ先見
ノ明ニ服スルモノナリ
昭和二十二年五月誌ス」
<三田演説館の由来>
(説明板)
「重要文化財
三田演説館の由来
慶應義塾の三田演説館は、福沢諭吉先生によって建設された我国最初の演説会堂である。開館は明治八年(一八七五)五月一日、はじめは今の塾監局の北端あたりにあったが、大正十三年(一九二四)に現在のところに移築された。
構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているけれども、本来アメリカから取り寄せた諸種の図面をもとにして造られたものであって、明治初期の洋風建築のきわめて珍しい遺構とされている。規模は床面積一九一平方メートル余、一部が二階造りになっていて、延面積は二八〇平方メートル余りになる。
福沢先生は晩年、この演説館について、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建
築、国民の記憶に存すべきものにして、幸に無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」としるしておられる。まさに、三田演説館はわが国文化史上の貴重な記念物というべきであろう。
慶應義塾」
(参考)
「慶應義塾発祥の地」(中央区明石町) こちらで記載
「福沢諭吉翁の墓」(麻布山善福寺) こちらで記載(墓地は撮影禁止のため画像なし)