Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 麻布山善福寺


○麻布山善福寺 港区元麻布1-6-21 HP

「江戸名所図会 麻布善福寺」

  
 

「江戸名所図会 善福寺開山了海上人誕生図」

  
 

<参道/寺号標/都旧蹟最初のアメリカ公使宿館跡>

   

 「開山弘法大師創立
  親鸞聖人御舊蹟地
  初代米國公使館趾」

  
 

<柳の井戸>

 江戸名所図会に「柳の井」が描かれています。麻布善福寺から抜粋しています。

  
 

「楊柳水銘」

 参道の途中に、今も水が湧いています。この湧水は「東京の名湧水57選」(平成15年1月)に選定されています。

    

(説明板)
「柳の井戸
 自然に地下から湧き出る清水である。
 東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に析願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
 とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。」
  昭和四十九年一月(平成二十六年十二月建替)  港区教育委員会」

  
 

<勅使門>

     

(説明板)
「麻布山善福寺勅使門
 当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(一二七四)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
 寺院の門としても重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
 当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって現在の形を再び現した。」

  
 

<麻布山善福寺案内図>

 「境内の史跡」
  ・本堂(港区指定有形文化財)
  ・秩父宮妃の碑(妃殿下お手植えの松)
  ・柳の井戸(表参道にあり)
  ・開山堂(国の重要文化財了海上人安置)
  ・逆さいちょう(国の天然記念物)
  ・親鸞上人像
  ・ハリス記念碑(初代アメリカ合衆国公使館跡)
  ・福沢諭吉翁の墓(慶應義塾の創始者)
  ・越路吹雪・岩谷時子の歌碑

   
 

<最初のアメリカ公使宿館跡(ハリス記念碑)>

(碑表)
 「 ON
  THIS SPOT
  TOWNSEND HARRIS
   OPENED
  THE FIRST AMERICAN LEGATION
   IN JAPAN
   JULY 7.1859

   DEDICATED BY THE AMERICAN-JAPAN SOCIETY
         DECEMBER 19 1930」

     
 

(碑裏)
 「本邦駐箚 初代米国公使館址」

  
 

(副碑)
 「此の碑は
  日米修好通商百年にあたり同記念行事運営会が復元したものである。
  昭和三十五年五月十二日」

    

(説明板)
「東京都指定旧跡
 最初のアメリカ公使宿館跡
   所在地 港区麻布一の六の二一善福寺
   史跡指定 昭和二八年一一月三日
   旧跡指定 昭和三○年三月二八日
 安政五年(一八五八)六月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政六年(一八五九)善福寺をアメリカ公使館として八月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久三年(一八六三)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治八年(一八七五)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
 寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。
  平成二四年三月建設  東京都教育委員会」

  
 

<手水鉢>

  
 

<鐘楼堂>

  
 

<亀子台>

  
 

<開山堂>

  

(説明板)
「善福寺 開山堂
 開山堂ははじめ真言宗の蔵王権現として開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。
 親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安置されることになった。か
つては堂前でさまざまな行事も行われていたが、戦災焼失後再建されて、今は東京都の有形文化財となった。
 像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。」

  
 

<金燈籠>

 明和2(1765)年と明和8(1771)年銘の燈籠です。

       
 

<善福寺本堂>

    

(説明板)
「港区指定有形文化財
 建造物 善福寺本堂
 善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和三十六年に現在地で組上げたものです。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和四年(一七六七)に再建されたものです。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われます。
 正面幅約二十八メートル、奥行約三十四メートル、入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとります。組物は尾垂木付の二手先です。
 天明の大火[天明八年(一七八八)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政十年(一七九八)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されましたが、翌年八尾別院に再建されました。
 本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。
  平成二十一年十月二十七日  港区教育委員会」

  
 

<奉献石燈籠>

 増上寺または寛永寺のものと思われる奉献石燈籠が2基ありました。
 2基とも全ての文字は削られており、将軍名はわかりませんでした。

   
 

<善福寺のイチョウ(逆さ銀杏)> 国の天然記念物

「天然記念物 善福寺ノ公孫樹
  昭和十一年十一月建設」

   

(説明板)
「天然記念物 善福寺のイチョウ
   所在地 港区元麻布一丁目六番二一号
       麻布山善福寺境内
   指定  大正一五年一○月二○日
 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、中国原産のイチョウ科の落葉高木である。雌雄異株で神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。四月に開花し、雌株は十月に種子(イチョウの実)が成熱して独特の臭気を放ち、黄葉する。
 この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは一○・四メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は七五○年以上と推定される。
 善福寺は、昭和二十年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。
 根がせり上がって、枝先が下にのびているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した技から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。
  平成三十一年 三月 建設  東京都教育委員会」

  
 

「江戸名所図会」

 江戸名所図会の麻布善福寺の挿絵の中に、「杖銀杏」が描かれています。

  
 

<墓地>

 「秩父宮妃の碑」(開山堂の右手)、「福沢諭吉の墓」(開山堂の左手)、「越路吹雪・岩谷時子の歌碑」(墓地入口右手)がありました。
 他にも著名人のお墓があるようです。
 墓地内は写真撮影禁止のため、画像はありません。

  


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