Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 町奉行(北町奉行所/南町奉行所/周辺)

 ○ 都旧跡北町奉行所
 ○ 北町奉行所跡
 ○ 歴史散策マップ
   ・江戸城外堀の石垣(鍛冶橋門石垣)
 ○ 南町奉行所
 ○ 町名由来板「有楽町」
 ○ 数寄屋橋ふれあい散歩
 ○ 有楽町で逢いましょう


都旧跡北町奉行所跡 千代田区丸の内1-8-1

 グラントウキョウノースタワー(大丸東京店が入居)前に「都旧跡 北町奉行所跡」が設置されています。

     

(プレート文)
「都旧跡 北町奉行所跡
  所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内
  指定 大正七年四月
江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政・司法・警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され役科は三千石、芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力・同心などがいた。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(一八四○)三月から三年の間北町奉行の職にあった。
  昭和四十三年十月一日 東京都教育委員会」

   


北町奉行所跡 千代田区丸の内1-8-1

 丸の内トラストタワーN館の東側に、説明板「北町奉行所跡」と下水遺構が設置されています。

    

 下水遺構
  

(説明板)
「東京都指定旧跡 北町奉行所跡
 この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、 天保11年から14年(1840-1843)まで当所で執務をしていました。
 平成12年からの発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここに復元した石組みの溝は、ここから西方約30mの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水構の一部です。この遺構は、本来3〜4段の石積みであったものと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのは、邪気が進入する鬼門である艮(うしとら:丑寅)の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています。
  所在地 千代田区丸の内一丁目
  旧跡指定 大正7年4月
  MARUNOUCHI TRUST CITY」

  

   

(参考)「遠山景元の墓」こちらで記載


○MARUNOUCHI TRUST CITY 歴史散策マップ 千代田区丸の内1-8-1

 丸の内トラストシティ入口に「歴史散策マップ」が掲示されています。

    

 @江戸城外堀の石垣の再現
  鍛冶橋門周辺で発見された堀石垣を江戸城外堀としてほぼ積まれていた形に再現しています。

(説明板)
「江戸城外堀の石垣
 北町奉行所の東方には、寛永13年(1636)に築かれた江戸城外堀がありました。現在この地域の外堀は、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、東京駅周辺は昭和三十年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名前などに名残を留めている程度です。
 ここに再現した石積みは、かって存在した外堀をイメージしたもので、その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲口南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時の形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴がみられます。
  MARUNOUCHI TRUST CITY」

    

 A玉川上水をイメージした親水空間
  玉川上水や江戸城外堀といった、かつて水との関わりの大きい本敷地内に上水の石組みをイメージした水空間を設置しています。

  

 B北町奉行所跡の石組溝
  敷地で発見された北町奉行所の屋敷北西部の道路の境を巡っていた下水溝の一部を復元しています。
  ※上記記載

 C玉川上水跡の床埋込ライティング
  玉川上水がかつて存在したところに水をイメージした青色に光る照明を床に埋め込んでいます。

  


南町奉行所跡 千代田区有楽町2-9-18

 JR有楽町駅の中央口前広場に、かつて南町奉行所がありました。
 広場には石垣が、地下広場には穴蔵が復元展示されています。

(正面)
 「東京都指定旧跡 南町奉行所跡」

(右側面)
 「所在地 千代田区有楽町二丁目
  指定 大正七年四月」

    

 石組下水溝
    

(説明板)
「東京都指定旧跡 南町奉行所跡
 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務していました。
 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。
 所在地 千代田区有楽町二丁目
 旧跡指定 大正7年4月
  平成19年(2007)10月 千代田区」

    

○南町奉行所穴蔵跡 千代田区有楽町2-7-1有楽町イトシア地下1階広場

 有楽町イトシア地下1階広場に南町奉行所の穴蔵が展示されています。

     

(説明板)
「南町奉行所跡から発見された穴蔵
 この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られてた地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。
 穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。
 ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。
 平成20年3月 千代田区教育委員会」

   

(参考)
 「大岡越前守忠相屋敷跡
 「大岡越前守上屋敷の燈籠と庭石


○町名由来板「有楽町」 千代田区有楽町2-5

 晴海通りに面して、バス停「数寄屋橋」の東側に「千代田区町名由来板 有楽町」が設置されています。

  

(説明板)
「千代田区町名由来板 有楽町

ぼくの有楽町 童門冬二
 ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街”だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに“遠くに在りて思うもの”だった。
 それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和三十二年(1957)五月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う「有楽町で逢いましょう」だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。ちかくの都庁に勤めていたぼくは“すし屋横丁”の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡にしっかり根づいている。 童門冬二」

有楽町
 「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(長益)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所があったのもこのあたりです。 有楽町町会」

    

歴史と文化の散歩道「数寄屋橋ふれあい散歩」 千代田区有楽町2-5

 晴海通りに面して、バス停「数寄屋橋」の西側に「歴史と文化の散歩道 数寄屋橋ふれあい散歩」が設置されています。

  

(説明板)
「数寄屋橋ふれあい散歩
 数寄屋橋ふれあい散歩は、日比谷公園から歌舞使座までの晴海通りを歩く約1.5kmのみちのりです。かつては水路に囲まれた銀座八丁、現在は日本を代表するショッピング街をめぐる散歩道です。」
「文明開化とレンガ街
 現在の銀座のにぎわいは明治に始まる。その頃銀座は、ガス燈・街路樹の続く煉瓦街だった。数寄屋橋から銀座にかけての一帯は、 文明開化の玄関口新橋ステーションや築地を間近に控え、また新橋から上野・浅草方面へ抜ける鉄道馬車が行き交い、維新後いちはやく過去の町並みが一変したところである。2階建アーケイド式のレンガ街には、草創期の新聞社が数多く軒を連ねた。また、近代商店街のさきがけにふさわしく、洋服屋・靴屋・時計屋・化粧品店など洋風の店が並び、情報とショッピンクの街として発展。“銀ぶら”ならぬ“レンガへ行く”という流行語を残している。」

    

「東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(三代広重 都立図書館蔵)

  

有楽町で逢いましょう 千代田区有楽町2-5-1

 2008年11月7日に歌碑「有楽町で逢いましょう」の除幕式が行われました。
 「有楽町で逢いましょう」の歌は、有楽町に出店したそごうデパートによる有楽町高級化キャンペーンとしての歌でした。

 「あなたを待てば雨が降る
  濡れて来ぬかと気にかかる
  ああビルのほとりのティー・ルーム
  雨もいとしや唄ってる甘いブルース
  あなたとわたしの合言葉
  有楽町で逢いましょう」

   


戻る