Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 鐘ヶ渕(墨田区墨田)

  ○ 「鐘ヶ淵」の由来
  ○ 鐘ヶ淵陸橋碑
  ○ 鐘ヶ淵

  ○ 鐘紡(カネボウ)
  ○ 鐘紡バス停
  ○ 鐘淵紡績発祥の地
  ○ カネボウ公園

  ○ 古代東海道
  ○ 鎌倉街道下道

  ○ 多聞寺        別頁
  ○ 香取神社       別頁
  ○ 正福寺/首塚地蔵尊  別頁

 (参考)
  ○ 綾瀬川と鐘ヶ淵/関屋の里(足立区千住曙町)


「鐘ヶ淵」の由来 墨田区堤通2-11-1

 墨田区総合運動場に墨堤通りに面して、説明板「「鐘ヶ淵」の由来」が設置されています。
 「鐘ヶ淵」は沈鐘伝説に由来しますが、説明板にあるように諸説あります。

  

(説明板)
「「鐘ヶ淵」の由来
  所在地 墨田区堤通二丁目11番1号
 鐘ヶ淵は、隅田川と綾瀬川の合流地点で、堤通二丁目の地先にあたります。江戸時代後期の『墨水遊覧誌』には鷺の名所であったと記されています。
かつて隅田川直角に曲がり、それが大工道具の指矩に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになったといわれています。
 鐘ヶ淵には、鐘にまつわる伝説がいくつもあります。たとえば、普門院が亀戸(江東区)に移転する際、梵鐘が隅田川に落ちたまま引き揚げられずに沈んでいるという話や、石浜の保元寺(台東区)の鐘が壊れて隅田川に転がり落ちたという話、あるいは8代将軍徳川吉宗が川底に沈んだ長昌寺(台東区)の鐘を引き揚でさせようとしたができなかったなどという話が伝えられています。
 明治時代には、周辺の開発が進み、紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社としました。この会社こそ、後に世界有数の紡績会社に成長した「鐘紡」で、このエリアにはその東京工場があり、周辺には工場に勤める多くの職員が暮らしました。工場は昭和44年(1969)に操業を停止し、それから次第に景観を変えていきました。
  令和3年3月  墨田区教育委員会」

   
 

<周辺の地図>

    

(参考)
 ○普門院(亀戸)
 ○保元寺(橋場)


鐘ヶ淵陸橋碑 墨田区堤通2-8 墨堤通り中央分離帯

 鐘ヶ淵陸橋交差点に、2つのモニュメント「鐘ヶ淵陸橋碑」があります。
 墨堤通りは交差点の下をアンダーパスでくぐっています。どういう趣旨で陸橋なのかわからない信号のある交差点です。
 「鐘ヶ淵陸橋交差点」という名称も不思議です。

<交差点北>

 「鐘ヶ淵」の地名の由来の図と「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」(広重)のレリーフが掲げられています。

   

(レリーフ文)
「鐘ヶ淵の由来には隅田川がこの辺りで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(矩尺)に似ているところから又、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。」

   

(レリーフ文)
「これは広重の「木母寺内川御前栽畑」(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすることができました。」

   

「名所江戸百景 木母寺 内川 御前栽畑」(広重)

 木母寺境内にあった料理茶屋と、内川、御前栽畑が描かれています。
 隅田川で舟を下りて、芸者が料理茶屋「植半」に向かっています。
 内川の左手が、江戸城で使用する野菜を栽培していた御前栽畑です。
 現在の梅若橋付近が御前栽畑でした。

  

(参考)「水神の森
 

<交差点南>

 隅田川に沈んでいく鐘のレリーフが掲げられている「鐘ヶ淵陸橋碑」です。

     


鐘ヶ淵

 隅田川が大きく蛇行しているところが鐘ケ淵です。
 鐘ケ淵は、足立区・墨田区・荒川区の3区境となっています。
 隅田川左岸が旧綾瀬川を挟んで足立区と墨田区で、隅田川右岸が荒川区です。

  
 

「名所江戸百景 綾瀬川鐘か渕」(広重)

 手前が隅田川で、向岸に綾瀬川が描かれ橋が架かっています。
 2枚目は綾瀬川と橋の拡大です。

   
 

「江戸名所図会 鐘ヶ淵 丹頂の池 綾瀬川/牛田 薬師堂 関屋里」

 其一と其二を繋いでいます。
 綾瀬川が手前の千住川(隅田川)鐘ヶ淵に流れこんでいます。
 綾瀬川には綾瀬橋が見えます。

  

 汐入公園(荒川区)から鐘ヶ淵(左上流:足立区、右下流:墨田区)

  

 旧綾瀬川河口から鐘ヶ淵(墨田区)  旧綾瀬川河口から鐘ヶ淵(足立区)

    


鐘紡(カネボウ)

 明治19(1886)年に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の五軒が集まり、東京綿商店が設立されました。
 翌年、鐘ヶ淵に紡績工場を建設して、明治22(1889)年に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と改称しました。
 工場は昭和44(1969)年に操業を停止しました。
 昭和46(1971)年に鐘紡株式会社に改称、平成13(2001)年にカネボウ株式会社に改称しています。
 バブル崩壊後、粉飾決算が繰り返され、最終的には、カネボウ株式会社は平成19(2007)年6月30日に解散しました。
 平成18(2006)年2月、カネボウ化粧品の花王への売却に伴い「カネボウ」の商標権はカネボウ化粧品に譲渡され、
 化粧品部門以外は、平成18(2006)年にカネボウ・トリニティ・ホールディングス(現クラシエホールディングス)を統括会社として再出発、
 新たなブランド名「クラシエ」としてスタートしています。

「鐘淵紡績株式会社」(日本商工大家集 大阪新報社 明治39年)

  

「鐘紡支」

 電柱の支柱名に「鐘紡」の名称が残っています。

  


鐘紡バス停 墨田区墨田5-16・墨田区堤通2-11

 墨堤通りに、「鐘紡」のバス停があります。
 バス停に「鐘紡」の名称が残っています。

    


鐘淵紡績発祥の地 墨田区墨田5-17-4 KCロジスティクス

 墨堤通りに面した「KCロジスティクス」に、
 墨田区教育委員会が設置した説明板「鐘淵紡績発祥の地」があります。

    

(説明板)
「鐘淵紡績発祥の地
   所在 墨田区墨田五丁目十九番ほか
 明治十九年(一八八六)に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の五軒が集まり、三越得右衛門を頭取として東京綿商店が設立されました。翌年、資本金十倍に増加させ、隅田川河畔鐘ヶ淵の広大な土地に紡績工場を建設して、明治二二年(一八八九)に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。これが、現在のカネボウ株式会社です。
 鐘淵紡績は、設立当初こそ経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に、日清戦争を機に大発展を遂げ、世界有数の紡績会社となりました。
  平成十三年三月  墨田区教育委員会」

  


カネボウ公園 墨田区墨田5-17

 雑草が生えまくり荒れ放題の公園です。
 鐘淵紡績株式会社発祥の地で、発祥碑が建っています。

     

 後日訪問時には、きれいに草刈りされていました。
 隅田区のサイトに誰が管理しているのでしょうかねとコメントがあったので、公園の管理に関しては墨田区はノータッチのようです。
 町会が管理しているのでしょうかね?

    
 

<発祥の地碑>

(碑文)
 「鐘淵紡績株式会社
  発祥の地
  明治二十二年五月六日創立」

    

(プレート文)
「発祥碑由来記
此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下命しましたが成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます。 周辺の風光明媚を愛でて徳川氏はこゝを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。
明治二十年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社が設立せられ、紡績機械ニ万九千錘を英国より輸入して東洋第一の紡績工場を建設、明治二十二年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しました。 爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品はカネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。
この間にあって産業立国の一翼を担った人々少なからず、また過ぐる関東大震災、東京大空襲当時その職に殉じて斃れた者は五十余柱に及びました。
いまこゝに時代の進運と共に工場の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し八十余年に亘ってうけたこの地域社会の御かげを感謝すると共に老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園とし永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
  昭和四十四年十月二十日
    鐘淵紡績株式会社社中一同」

  
 

<大震災復興紀念樹>

 記念樹はなく、碑のみが建っています。

 「大震災復興紀念樹」
 「昭和三年一月吉日
  寄贈男子従業員一同」

   
 

<震災記念観世音菩薩>

 関東大震災慰霊の観世音菩薩像です。
 第二次大戦の供養碑も兼ねています。

 「震災記念 観世音菩薩 鐘紡」
 「大東亜戦争 戦災殉難者供養之碑」

     


古代東海道

 鐘ヶ淵駅西口の駅前に、説明板「武蔵・下総を結んだ古代東海道」が設置されています。

(説明板)
「武蔵・下総を結んだ古代東海道
  所在地 墨田区墨田二丁目〜四丁目
 東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。
 官道に定められた年代は、九?十世紀と想定されます。『大日本地名辞書』に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(一八八○)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。
 鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和ニ年(八三五)の太政官符で渡船の数を二艘から四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが『伊勢物語』東下りの場面です。
在原業平が「名にしほはゝいざ事とはむ宮こ鳥わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。
  平成二十三年三月  墨田区教育委員会」

     

 東京都の標柱「隅田川七福神散歩」も設置されています。

  

 説明板が設置されている花壇は「墨田つり鐘会」の管理です。

  

 「つりがね最中」を売っている墨田園(墨田区墨田4-9-17)です。

  
 
 

<古代東海道をたどる>

 荒川土手〜ほがらか保育園〜墨田変電所横〜伊勢崎線第17号踏切
 〜墨田二丁目交差点(鎌倉街道と交差)〜稲荷神社〜榎本武揚像〜東白鬚公園

  

 荒川開削により分断された古代東海道の荒川河川敷へ降りる階段と河川敷です。

   

 荒川を挟んだ葛飾区側にも古代東海道の解説板が設置されています(こちらで記載)。

  

 荒川土手からほがらか保育園横へ降りる階段途中に石仏がおわします(墨田区墨田4-34)。
 摩耗により文字は読めません。ここは荒川土手ですが古代東海道の雰囲気を残しています。

    

  荒川土手階段から古代東海道    ほがらか保育園横から西方向        荒川土手方向
    

 変電所横から荒川土手方向
  

     踏切の東から荒川土手方向     古代東海道は、踏切で鐘ヶ淵街道と交差します。
   

 墨田二丁目交差点(鎌倉街道と交差)手前
    

 稲荷神社 墨田区墨田2-7-1
 古代東海道が墨堤通りに出る角に稲荷神社があります。
     

    

 榎本武揚像の脇の通路を進みます。榎本武揚さん、お久しぶりです。
    

    

 都営白鬚東アパート9号棟の中を抜けると東白鬚公園に出ます。

    

 古代東海道は「住田の渡し」へ向かいます。

   


鎌倉街道下道 墨田区墨田1-4-1

 向島警察署白鬚橋交番の隣の公衆トイレの横に鎌倉街道「下の道」説明板が設置されています。

    

(説明板)
「下の道
 承和2年(835)の太政官符に「武蔵国下総両国境、住田河四艘…」の記載がみられます。住田渡し(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正3年(1914)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。
 この墨堤堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます(吾妻鏡)。
 さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。
  平成12年3月
    監修 墨田区教育委員会
    施主 東京都住宅供給公社」

  

 都営アパートに遮られている古代東海道は都営アパートの北から道路となり、
 首塚地蔵尊、正福寺を経て、墨田二丁目交差点で古代東海道と交差します。

    鎌倉街道の道路始点         墨田二丁目交差点手前            鎌倉街道と古代東海道
    


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