宝治2(1248)年銘の都内最古の板碑があります。
江戸時代の「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)でも絵図入りで紹介されています。
荒川辺八十八ヶ所霊場第66番札所、荒綾八十八ヶ所霊場66番札所です。
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)によると、
阿弥陀詣の六番寺は、正福寺(墨田区墨田)でしたが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、
常光寺が六番寺になったと記載されています。
また、古碑について絵図入りで記しています。
「寶治二年 戊申 三月 三日」
<和みの像>
<大師堂>
参道右手に「大師堂」。
<手水鉢型庚申塔>
大師堂の手前左手に墨田区内最古の寛文7(1667)年4月銘の手水鉢があります。
右側面に三猿が陰刻され、正面中央には「奉造立庚申供養二世安樂所」とあります。
<阿弥陀如来>
万治4(1661)年銘の阿弥陀如来です。
<板碑二基> 墨田区文化財
都内最古の宝治2(1248)年3月銘の板碑があります。
(説明板)
「≪墨田区登録文化財≫
正福寺の板碑
所在 墨田区墨田二丁目六番 正福寺内
板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士たちが供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります。(登録は二基)
宝治二年(一二四八)銘の板碑は高さ一一六cm、幅四六cm、厚さ一○cmで、区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといわれます。なお、区内には約三○基の板碑があります。
平成一四年三月 墨田区教育委員会」
正福寺門前に「首塚地蔵尊」が祀られています。
(説明板)
「・首塚地蔵尊
地蔵菩薩 ご縁日 四日
ご真言
オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
天保四年(一八三三年)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。
関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。
この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。
この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。
このお堂は、真言宗中興の祖興教大師八百五十年御遠忌 ( 平成四年十二月十二日
) 記念事業の一環として、平成二年八月檀信徒一同により再建、奉納されたものです。
月光山正福寺」