【荒川区南千住】
○ 都立汐入公園
【千住曙町】
○ 旧綾瀬川
・綾瀬橋
・隅田水門
○ 東武鉄道堀切駅
○ 西光院(牛田薬師)
○ デザインマンホール(関屋の里プチテラス)
○ 関屋の里プチテラス
かつてこの土地には、現ユニチカの「大日本紡績」や現クラシエの「鐘淵紡績」等の工場がありました。
東京都が跡地を買収し、1988(昭和63)年から「白鬚西地区市街地再開発事業」を開始。
2006(平成18)年4月に都立公園として汐入公園が開園しました。
<水神大橋/千住汐入大橋>
・汐入公園から水神大橋上流
・千住汐入大橋 荒川区南千住8丁目〜足立区千住曙町
<展望広場> 荒川区南千住8-14
展望広場は荒川区にあり、向岸の旧綾瀬川右岸が足立区、左岸が墨田区。3区境です。
展望広場から対岸の旧綾瀬川眺望
「江戸名所図会 鐘ヶ淵 丹頂の池 綾瀬川/牛田 薬師堂 関屋里」
其一と其二を繋いでいます。
綾瀬川が手前の千住川(隅田川)鐘ヶ淵に流れこんでいます。
綾瀬川には綾瀬橋が見えます。
「名所江戸百景 綾瀬川鐘か渕」(広重)
手前が隅田川で、向岸の橋が架かっている場所が綾瀬川です。
2枚目は橋と綾瀬川部分の拡大です。
「綾瀬川朝」(井上安治)
明治初期の綾瀬川と綾瀬橋です。
荒川放水路の開削により綾瀬川が分断され、隅田川に合流直前の綾瀬川が取り残されています。
荒川に面した隅田水門から旧綾瀬川となり、綾瀬橋の下流で、隅田川に合流します。
旧綾瀬川が足立区(曙町)と墨田区(墨田5丁目)の区境となっています。
墨堤通りが旧綾瀬川を渡る橋が綾瀬橋です。
「絵本江戸土産 綾瀬川」(広重)
綾瀬川が隅田川へ合流する光景が描かれています。
綾瀬橋の高欄の模様は、桜の花です。
<綾瀬橋からの眺め>
綾瀬橋から旧綾瀬川河口部を見たところ。
<旧綾瀬橋下流から綾瀬橋>
綾瀬橋の下流から上流の綾瀬橋を見たところ。
<河口部>
旧綾瀬川河口部から隅田川下流、河口部、上流の眺め。
隅田川は大きく蛇行しており(鐘ケ淵)、川幅は広いです。
隅田川唯一の造船所が旧綾瀬川河口部にある伊澤造船(株)です。創業は明治10(1877)年。
進水台のレールが水中へ延びているのが見えます。
荒川に面した隅田水門です。隅田水門銘板「すみだすいもん 昭和44年竣工」。
(説明板)
「隅田水門
増水時に、荒川の水が隅田川に流入することを防ぎます。
荒川が放水路として人工的につくられるまで、このあたりは旧綾瀬川が隅田川に合流する場所でした。旧隅田水門は、荒川と隅田川を往来する舟運の要衝として大正13(1924)年に建設されました。現在の隅田水門は昭和44(1969)年に改築されたもので、今も多くの船が行き来しています。
(以下略)
■荒川からの洪水の流入を防ぐ隅田水門
(以下略)
国土交通省荒川下流河川事務所」
東武線跨線橋(横断跨線人道橋)から見た旧綾瀬川の下流方向です。
墨田水門の近くに、東武鉄道堀切駅があります。
大正13(1924)年築の木造駅舎です。
東京23区内の鉄道駅で、駅前に店が全くないのはここだけではないですかね。
江戸時代には、牛田薬師として知られていました。
荒川辺八十八ヶ所霊場第63番札所、荒綾八十八ヶ所霊場第82番札所です。
石出常軒の碑と墓があります。
石出帯刀吉深といい江戸町奉行配下の牢屋奉行でした。
振袖火事で江戸市中が火の海になり吉深は、小伝馬町牢屋から囚人を一時解放し避難させ人命を救いました。
晩年、国学に傾倒していた吉深は常軒と号しました。
「江戸名所図会 牛田 薬師堂 関屋里」
其二と其三を繋げています。手前に千住川(隅田川)、右から奥に綾瀬川が流れています。
挿絵には、「西光院」「やくし」が見えます。
中央下には「元天神」が見えます。左手に「此辺を関屋の里といふ」とあります。
<山門/寺号標>
山門左手に寺号標「牛田薬師 西光院」。
<稲荷社>
祠内に神狐が控えているので、稲荷社でしょう。山門入ってする左手です。
祠の左手に石碑。右手にも説明板「石出常軒の碑」の下に石碑。
<庚申塔>
山門入って右手の塀沿いに、庚申塔などが並んでいます。
・文字庚申塔「庚申青面金剛」「三猿」(左と右の猿は内向きです。)文化8(1811)年。
・板碑型庚申塔
正保3(1646)年銘の庚申板碑です。
・光背型庚申塔
・「荒綾 八十八ヶ所第八十二番西光院」
・庚申塔手洗鉢・三猿 天和3(1683)年銘。
<水子地蔵尊>
<石庭と池/石燈籠>
<本堂>
<石出常軒の碑>
(説明板)
「石出常軒の碑 千住曙町二七‐一 西光院
石出帯刀吉深は、江戸町奉行配下の断獄令(牢屋奉行)で、明暦三年(一六五七)一月の、いわゆる振袖火事で江戸市中が火の海と化した折、小伝馬町の牢屋から囚人を一時切放(解放)し、避難させ人命を救った。以後この切放は慣例となり、日本行刑監獄史上、特記される人物である。
また、役職とは別に、朱子学や忌部神道を学び、国学に傾倒して和歌・連歌で名をなし多くの作品を残した。晩年関屋の里に隠棲してからは常軒と号し、病弱を押して源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させ、元禄二年(一六八九)三月、七十五歳で歿した。
西光院墓地にある「石出常軒法名日念碑」は、長男師深が父の事績を書き残した碑で、かなり風化しているが、一部は『新編武蔵風土記稿』にも記録されている。昭和五十七年十二月区登録有形文化財(歴史資料)とした。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」
<墓地>
説明板から墓地に入って突き当たりに「石出常軒の墓」と「石出常軒の碑」などがあります。
NPO法人千住文化普及会のサイトによると、右端「石出常軒の墓」、その左隣「石出常軒の碑」。
関屋の里プチテラス前に、デザインマンホール「隅田川関屋の里」があります。
<日光道中>
説明板「日光街道(千住宿)」が掲示されているとともに、歌川広重「日光道中」から複数枚掲示されています。
(説明板)
説明板が喫煙所の裏に掲示されています。
「日光街道(千住宿)
江戸時代の五街道の一つであった日光道中(現在は日光街道と呼ばれています。)は將軍の日光社参が行われた政治・経済・文化の面からも重要な街道でありました。
日本橋を起点として、千住、草加、越谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、間間田、小山、芋柄新田、小金井、石橋、雀宮、宇都宮、徳次良、大沢、今市、鉢石、日光に至る二十一宿をいい、ここ千住は日光街道の第一の宿として寛永二年(一六二五)に江戸幕府によって定められ、以後発展繁栄してゆくことになりました。
安藤広重作『日光道中』より
足立区制六十周年記念
贈 足立まつり実行委員会」
「日光道中」(広重)
「日光道中」は32枚(2枚1組)の浮世絵で、千住から鉢石までの21宿と日本橋、野沢の日光道中23枚、神橋から御宮までの日光山9枚があります。
掲示されている錦絵です(足立区郷土博物館所蔵より)。
「ニ 千住」 「三 草加」 「八 栗橋」
「十八 宇都の宮」 「廿四 御神橋」
<隅田川」関屋の里>
説明板「隅田川」関屋の里」と、葛飾北斎「富嶽三十六景関屋の里」のタイル絵が掲示されています。
(説明板)
「隅田川関屋の里
「庵崎のすみだ河原に日は暮れぬ関屋の里に宿やからまし」
康元元年(一二五六)藤原光俊が読んだ歌が「江戸名所図会」に紹介されています。この頃すでに「関屋」の地名が使われていたことから、計り知れない人々の歴史がこの地に刻み続けられていることになります。
そして、江戸時代には隅田川八景の一つとして舟遊びの名所に、また葛飾北斎によって富嶽三十六景の一つとして選ばれる程、親しまれてきました。
「関屋の里」への人々の愛着が尽きぬよう、ここに再現してみました。
平成四年三月
足立区都市環境部
出典 葛飾北斎「富嶽三十六景関屋の里」」