Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 墨田区墨田

  ○ 多聞寺
  ○ 香取神社


多聞寺 墨田区墨田5-31-13 HP

 隅田山吉祥院多聞寺と号します。関東大震災、戦災ともに遭わなかったため、昔日の面影を残す寺院です。
 茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財です。他、庚申塔や六地蔵の墨田区文化財があります。
 その他創建にまつわる妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨などがあります。
 江戸時代には隅田川神社の別当寺でした。
 荒川辺八十八ヶ所霊場65番、荒綾八十八ヶ所霊場5番霊場でした(荒綾八十八ヶ所霊場5番霊場は元宿大師堂に移動しています)。
 

<寺号標「隅田山 多聞寺」>

 寺号標「隅田山 多聞寺」と、標柱「隅田山吉祥院 多聞寺 本尊毘沙門天」です。

   

 山門手前の参道右手に石仏が並んでいます。

  

 覆屋

  

 左は子安地蔵尊。明和8(1771)年の造立。

  

 右は阿弥陀如来を主尊とする庚申塔。
 寛文4(1664)年の造立。墨田区文化財。

  

 隣の覆屋は弘法大師座像がお1人で座します。

  

 露仏の石仏が八基並んでいます。

  

 左から、元禄15(1701)年庚申塔
  

 2番目 庚申塔
  

 3番目 延宝8(1680)年銘の庚申塔
  

 4番目 元禄10(1697)年銘の庚申塔
  

 5番目、6番目
   

 7番目 延宝8(1680)年銘の地蔵尊を主尊とする庚申塔
  

 8番目
  
 

<多聞寺山門>

    

        山門内                 山門裏                山門前参道
    

(説明板)
「墨田区指定有形文化財 多聞寺山門
  所在地 墨田区墨田五丁目三十一番十三号
  所有者 宗教法人 多聞寺
 多聞寺山門は木造切妻造の四脚門で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石(礎盤)など一部に禅宗様の技法が確認できます。
 寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二年(一六四九)の建立後、享保三年(一七一八)二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(一八○三)二月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、現存する山門の建立年代
は十八世紀を降らない、との判断が得られています。
 これらのことから、この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています(ただし後年幾度か政修が行われています)。
 多聞寺山門は、このように、建立年代が江?時代中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形文化財に指定されました。
  平成二十九年九月  墨田区教育委員会

 山号額「隅田山」(正法金対書)
 裏に「明和九辰三月吉日造営」、「現住法印典慶代」、「願主 瀧澤逸平 規和」と刻まれています。このため、現存する山門を明和9年(1772) の造営物と見る説もあります。」

  

(説明板)
「多聞寺の山門
 山門中央の「墨田山」と記された山号額の裏に「明和九年」(一七七二年)と彫られており、現存する墨田区内最古の建造物として区登録有形文化財とされています。
 屋根を支える本柱の前後に二本ずつの控柱をもつところから四足門または四脚門と呼ばれる形式の門 です。一部には朱と思われる痕跡があり、建立当初は朱塗り瓦葺きであったことが察せられます。その後、享和三年(一八〇三年)の火災、安政二年(一八五五年)の大地震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、廃仏毀釈、関東大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆<人間自身が作り出した苦しみの世界>の人々の営みを見据えてきました。
 これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。
  墨田山 多聞寺」

  
 

<隅田川七福神の碑>

 榎本武揚の書です。榎本武揚が当寺を訪れたおり、筆をとったといわれます。

(碑文)
 「隅田川七福神之内 毘沙門天 正二位子爵 榎本武揚」

  
 

<多聞寺 毘沙門天>

(案内板)
「隅田川七福神コース 案内板
 多聞寺 毘沙門天
 多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。
 毘沙門天は、佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。」

   
 

<南無阿弥陀仏題目塔>

 弘法大師霊場ですが、南無阿弥陀仏題目塔が山門脇に建てられています。
 享保11(1726)年の造立です。

  
 

<狸塚>

 山門入って左手に「狸塚」があります。

   

    

(説明板)
「狸塚のいわれ
 むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があらわれて、
 「おい、ここはわしのものじゃ。さっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」
 と、おどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。
 「おまえの悪行は、いつかおまえをほろぼすことになるぞ。」
 次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか『狸塚』と呼ばれるようになりました。」

  

<不詳石碑>

  

<不詳石碑>

 日露戦役の個人の紀念碑ですかね。

  

<橘千蔭の碑>

  
 

<平和観音像>

 弘法大師ご入定1150年のご遠気忌を記念して、
 昭和59(1984)年に東京大空襲の犠牲者を追悼する為に建立されました。

    
 

<浅草国際劇場の鉄骨>

(説明板)
「東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945 (昭和20) 年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、 下町一帯は“炎の夜” と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。
  隅田山 多聞寺」

    

(説明板)
「戦災の証言者
 パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空爆で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
 1992年10月18日 戦災の木を保存する会」

   
 

<坐姿六態地蔵> 墨田区文化財

 坐像の六地蔵は都内でも四例にすぎないとのこと(寺パンフレットに記載)。
 左から、享保3(1718)年、享保元(1716)年、正徳2(1712)年、正徳3(1713)年、正徳4(1714)年、正徳3(1713)年の地蔵です。

    

(説明板)
「<墨田区登録文化財> 六地蔵座像
  所在 墨田区墨田五丁目三十一番十三号 多聞寺内
 この六地蔵像は総高約一五○センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ六十センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んています。
 欠?や修復の跡かみられますか、僧覚誉理慶(利?)が願主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結
衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることがてきます。
 隅田村地蔵講中の数年間にわたる作善行為を知り得る、貴重な資料といえます。
 六地箴の製作年代は右から、正徳三年(一七一三)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年二月吉祥日、享保元年(一七一六)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています。
  平成四年三月  墨田区」

  
 

<映画人の墓碑>

(碑文)
「映画人の墓碑
「映画を愛し平和と民主主義を支え人間の尊厳を守った人々ここに眠る」
「墓碑の由来
 故坂斎一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主主義的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。
 その意思を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。
  一九九二年四月二九日
  映画を愛し 平和と民主主義を支えた人々の墓碑の会
  隅田山多聞寺三十世 岸田正博代」

    
 

<宝篋印塔/弘法大師一千五十年遠忌碑>

   
 

<池>

 水なしの池です。

  
 

<本堂>

 本堂と常香炉。

     
 

<庫裡>

  


香取神社 墨田区墨田5-31-14

 多聞寺の隣にある「隅田香取神社」です。
 隅田川神社の分社として、大神輿が保管されています。

     


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