【葛飾区】
○ 浮世絵に見る曳舟
○ 古隅田川交差路〜曳舟川親水公園
○ 旧水戸街道 亀有上宿
○ 亀有一里塚跡
○ 曳舟川親水公園
○ 四つ木めだかの小道
○ 古代東海道
【墨田区】
○ 浮世絵に見る小梅堤
○ 曳舟川の由来碑
○ 曳舟川通り
○ 小梅児童遊園
○ 小梅一丁目町会神輿庫
○ 平和地蔵尊
○ 小梅橋
「名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね」(広重)
曳舟川で曳き舟が行えたのは、水路が真っすぐなこと、橋がないことでした。上水廃止後、亀有から四ツ木の間で曳き舟が行われました。
この錦絵が描かれた場所は諸説ありますが、ここが亀有だとすれば、奥に見える橋が水戸街道で、その手前に船着き場があり、何艘かサツパコが停まっています。
近景は、サツパコと曳き手で、サツパコ三艘のうち、二艘は女性が曳いています。
遠景は、日光連山が見えます。川がカーブしているのは、奥行きを出すためのデフォルメです。
「絵本江戸土産 四ツ木通 引舟道」(広重)
「前に記せし掘割は その長きこと二里に餘り 末流新宿の川に入る 適ここを過るの旅客舟に乗て往還すれど 元来幅の狭きによりて その舟に縄を掛け陸にありてこれを引く 因て引舟道りと唱ふ 水竿を操り盧をおすより またその客は風雅なり」
「江戸名所道外尽四十 四ツ木通りの引ふね」(歌川広景)
土手で一服している物売りのキセルにもう一本別のキセルが引っかかっています。
舟客が吸っていたキセルが、土手のキセルにからまって「サッパコ」の舟客は驚きの表情です。
「東京小梅曳船夜図」(小林清親)
明治9年の曳船の光景です。
船は描かれていませんが、船をそれぞれ曳く男女が描かれています。
男は咥え煙草でしょうか、煙草の煙が後ろにたなびいています。
引き舟が行われたのは亀有と四ツ木の間ですが、明治初頭はタイトルにある小梅でも行われたのでしょうか?
小梅辺りは橋が多く物理的に引き舟は厳しいと思います。
川が曲線となっているのは、広重と同様デフォルメでしょう。
<橋跡石碑>
亀有大水車及び古隅田川交差路から南に入ると、足立区から葛飾区となります。
曳舟川親水公園までの曳舟川の橋の跡地に、かつての橋の写真が石碑に掲げられています。
以下は一部です。
<街路灯>
<亀六一之橋>
<亀六二之橋>
<曳舟川の面影(昭和62年当時)>
<三共橋>
常磐線の架道橋の北に「三共橋」
<曳舟槐戸橋>
常磐線の架道橋の南に「曳舟槐戸橋」
<曳舟古上水橋>
曳舟川親水公園の始点と、旧水戸街道との道上小学校東交差点の街灯には、曳舟が描かれています。
「曳舟古上水橋碑」があります。
四ツ木道(曳舟川親水公園)と旧水戸街道との交差点に「旧水戸街道 亀有上宿」碑があります。
「亀有において以前から水戸街道に接し
千住宿に近い地域を上宿と称していた。
平成十四年七月 亀有 上宿 葛飾区」
「名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね」(広重)
(拡大)
曳舟川に架かる橋(曳舟古上水橋)が見えます。橋を通るのが水戸街道でしょう。
曳舟川の橋の手前に船着き場があり、何艘かサツパコが停まっています。
四ツ木道は、旧水戸街道と交差しているので、交差点から100mほど東進したところにある亀有一里塚に向かいます。
水戸佐倉道(旧水戸街道)の歩道に一里塚の説明板と水戸黄門像があります。
千住追分(千住五丁目)で日光道中から分かれてからの一里です。
四ツ木道(曳舟川親水公園)は、旧水戸街道と交差しており、
亀有上宿碑のある交差点から100mほど旧水戸街道を東進したところにある亀有一里塚に向かいます。
水戸佐倉道(旧水戸街道)の歩道に一里塚の説明板と水戸黄門像があります。
日光道中の千住追分(千住五丁目)(こちらで記載)から分かれてから一里です。日本橋からは三里です。
「一里塚 旧水戸街道 松戸 千住」「平成十四年四月 亀有 上宿 建立」
(説明板)
「一里塚跡 所在地 葛飾区亀有三丁目12番地先
葛飾区亀有一丁目28番地先
一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4km)ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。
一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長九年(一六○四)に設置が命ぜられた江戸時代のものをさします。
亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。
塚の位置は、ここから東へ10m先にありました。
葛飾区教育委員会」
<水戸黄門像>
助さん・格さんを従えた水戸黄門の顔の像です。
(碑陰)
「記念碑
旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。
平成十四年四月吉日
葛飾区
亀有上宿商店会」
「曳舟川親水公園」は、亀有1丁目27番から南下、白鳥を経て、四つ木に至る曳舟川の暗渠にある葛飾区立公園です。
平成12(2000)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
(参考)葛飾区施設案内→曳舟川親水公園
・葛飾区亀有4-17地先〜葛飾区亀有4-1地先
・葛飾区白鳥3-32地先〜葛飾区白鳥2-1地先
・葛飾区白鳥2-1-1(広場)
・葛飾区四つ木5-25地先〜葛飾区四つ木4-25地先
<道標>
四ツ木道と水戸佐倉道の交差点に、道標があります。
表面「四ツ木道」
左面「これより水戸佐倉街道」
右面「曳舟古上水橋」
裏面「平成九年三月 葛飾区」
<曳舟川親水公園入口>
<曳舟川の由来>
説明板「曳舟川の由来」があります。破損が激しいです。
(説明板)
「曳舟川の由来
曳舟川は、江戸幕府が明暦三年(一六五七)の大火ののち、開発に着手した本所・深川方面の新市街地へ、飲料水を供給する目的で開削された水路です。成立は万治二年(一六五九)といわれ、
亀有上水あるいは本所上水・小梅上水とも呼ばれました。水源は瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有に入ってからは東側に中井堀を分水し、四つ木村付近までは二条の水路が平行して流れていました。
亀有上水の廃止は、享保七年(一七二二)のことで、小梅より南の水路は埋め立てられましたが、上流部はそのまま用水として残され、古上水堀と称されました。
上水の廃水後、篠原村(現四つ木)から亀有村間の二八町(約三キロメートル)の水路を利用して「ザッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩にかけて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ばれるようになりました。
帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟は江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や、初代歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれています。」
<曳舟川の由来>
続いて、説明板「曳舟川の由来」があります。こちらは破損しておらず、読みやすい。
最初の説明板と内容は微妙に異なっています。
(説明板)
「曳舟川の由来
曳舟川の名は、江戸時代中期から明治一五年頃まで、篠原村(現四つ木)〜亀有村間の二八町(約3km)でサッパコという小舟に乗せた人を、船頭が土手から舳先につけた縄を引いたことにちなんでいます。
曳舟川は江戸時代当初は、干拓・埋立が進んだ葛西領沿岸部の本所・深川地域へ飲料水を供給した水路でした。成立は万治三年(一六五九)で、亀有上水・本所上水・白堀上水ともいわれました。水源は、元荒川に設けられた瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有以南は古隅田川から引いた東側の中井堀と四つ木付近まで並んで流れていました。
享保一四年(一七二九年)、葛西領の用水溜井が、亀有溜井から小合溜井(現水元公園)に変わると、すでに享保七年に廃止されていた上水路は葛西用水の水路として再利用され、古上水堀と呼ばれます。曳舟は、江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や初代歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。
昭和三十三年(一九五八)中井堀と古上水堀が一本化されて以降は、曳舟川の名のみが残り、現在の曳舟川親水公園へと受け継がれています。
挿絵「安政4年(1857)葛飾区歴史と天文の博物館蔵」 葛飾区」
<一之舟着場/二之舟着場(休憩所)>
一之舟着場から三之舟着場まで休憩所があります。
<亀有物語>
(銘板)
「亀有物語
亀有の名が歴史の記録に登場してくるのは、今から約八百年前のことです。
「義経記」によれば、治承四年(一一八○年)、約三万人の軍勢を率いる源頼朝は、鎌倉に向かう途中、亀無(現在の亀有)などから、海人の釣舟数千艘を用意させ、三日間で隅田川に浮橋をつくらせたと記されています。
当時の地形は現在とすいぶん違っていて、浅草付近まで海岸線があったとされ、亀有周辺にも漁に携わる人々が住んでいたと想像できます。
江戸時代の初期には、亀無は亀有に改められました。
亀有は千住宿から東に分かれる水戸佐倉道の街道筋にあたり、一里塚が設けられました。
街道は旅人のほか、水戸や奥州諸藩の大名の参勤交替、小金原(松戸)のお鹿狩りに向かう将軍家の通行もあって賑わいをみせました。
明治三○年(一八九七)には、常磐線に亀有駅が設置され、都市化の進行によってのどかな農村風景も次第に変化をみせ、現在に至っています。」
<曳舟川物語>
(銘板)
「曳舟川物語
江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行われていました。
かつて、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫓でこぐのが困難でした。そこで五、六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法がありました。
篠原村の発着所には吉野屋としいう茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号の吉野屋にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそう賑わいました。
やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺にもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。」
<木橋>
<曳舟川親水公園の水のしくみ>
(説明板)
「・この流れの水は、水道水が循環しています。
汚さないようにお願いします。
・水は水槽内にあるポンプで上流まで運ばれます。
・水の一部は、ろ過機を通りきれいになります。
・ろ過機を通った水は滅菌機で殺菌されます。」
<曳舟川の歴史>
(説明板)
「曳舟川の歴史
綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の名の由来です。
江戸時代前期の一六六○年代に作られたという本所・深川方面に通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ上流部だけが残ったものです。
「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の二八町(約三キロメートル)の水路で始まりました。
当時は柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
「絵本江戸土産」四ツ木通 引舟道(国立公文書館蔵)より
<モニュメント>
<国立国会図書館所蔵「絵本江戸土産」「四ツ木通引舟道」>
「四ツ木通引舟道
前に知るせし掘割のその長きを二里に余り末流新宿の川に入る道それを過る旅客舟に乗って往還すれど元来幅の狭きによりてその舟に縄を掛け陸に在りてそれを引く。
よって引船通りと唱える水竿を操り櫓をだすより、またその客は風雅なり。土産」「四ツ木通引舟道」
<曳舟十二橋>
鷹匠ら2人と飛んでいる鳥を見る2人の像があります。
鷹匠の横に、碑「鷹狩りと葛西」があります。
(碑文)
「鷹狩りと葛西
鷹狩りは鷹匠によって飼いならされた鷹を放ち、鶴・白鳥・鴨などの獲物をとらえる古くから伝わる狩猟法です。慶長八年(一六○三)江戸に幕府を開いた徳川家康は、鷹狩りを非常に好んで各地に御殿やお茶屋を設けました。
三代将軍家光の代には制度も整い、五代将軍綱吉の時は生類憐みの令の影響もあって、一時中断しましたが、八代将軍吉宗は享保元年(一七一七)制度を復活させ、幕末まで続きました。
当区一帯は墨田・江東・江戸川区とともに葛西筋といわれ、河川や沼地・湿地が各所にあり野鳥が多く飛来するので将軍家の鷹場となりました。しかしひとたび鷹狩りが行われると、村々にはさまざまな人足役や諸品の納入などが課せられ、田畑の作物や生活面でもいろいろな規制を受けて、農民にとっては大きな負担となっていました。
かつて、この付近には白鳥の飛来した沼があり、鷹狩りの場所のひとつで、白鳥という町名はこのことにちなんでいます。周辺にはお花茶屋など鷹場に関する地名や将軍の休憩所となった寺も残っています。」
説明板にあるこの2つは見当たりません。
6.ブロンズ像(舟を曳く人)
7.和舟
<葛西用水と曳舟碑>
「ブロンズ像(舟を曳く人)」「和舟」は見当たりませんが、石碑「葛西用水と曳舟碑」があります。
(碑文)
「葛西用水と曳舟
親水公園として生まれ変わった水路は、江戸時代には葛西用水とよばれ、利根川中流の川俣(埼玉県羽生市)を取水口とし、万治三年(一六六○)関東郡代伊奈忠克によって開削された農業用水路です。当初は幸手用水と称されましたが、享保四年(一七一九)上流に新たに元圦が設けられたことにより、羽生・幸手・新方・松伏・二郷半・八条・谷古田・淵江・東葛西・西葛西領の十か領・十一万石余・二六七か村を灌漑する大用水となりました。
用水は、西葛西領に入ると槐戸圦(常磐線線ガード下)付近で東井堀と西井堀に分け、本流も東側に中井堀、西側に古上水堀の二筋となり、四つ木付近まで平行して流れていました。
この内古上水堀は本所に上水を供給していましたが、享保年間に上水が廃止となり、その後、曳舟が始まったといわれています。
曳舟の名は亀有村の水戸街道際から、篠原村までの間の二十八町(約3km)を、船の舳先に付けた長い綱を肩に懸けて人が引いたことにちなんでいます。『新編武蔵風土記行』によれば、舟は亀有村に七艘、篠原村に二艘、四ツ木村に三艘あり、多くの文人墨客が来遊して葛西の風物を楽しみました。」
<たんぼ>
<曳舟中之橋>
<十号橋>
<曳舟川の歴史>
(説明板)
「曳舟川の歴史
綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の名の由来です。
江戸時代前期の一六六○年代に作られたという本所・深川方面に通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ上流部だけが残ったものです。
「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の二八町(約三キロメートル)の水路で始まりました。
当時は柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
「絵本江戸土産」四ツ木通 引舟道(国立公文書館蔵)より
<道標「四ツ木道」>
表面「四ツ木道」
左面「至 亀有、水戸」
右面「至 四つ木、本所」
<広場> 葛飾区白鳥2-1-1
(説明板)
「曳舟川親水公園
江戸時代後期、葛西用水の一部であった古上水堀では、小船のへさきに綱をつけて土手から人が引く乗合舟が登場しました。亀有から四つ木まで行われたごの曳舟は、初代歌川広重の名所江戸百景にも描かれ、明治15、6年頃まで行われました。曳舟川親水公園は、足立区から葛飾区にかけて約6.5kmを流れる葛西用水緑地の一部です。緑道の他、亀有から四つ木まで約3.0kmある親水公園には、水遊びのできる広場が3ゾーンあります。その前後には昔の小川の姿に近づけた景観水路があります。本公園は、そのほぼ中央に位置する拠点広場です。」
<八号橋/七号橋>
<三之舟着場(休憩所)> 葛飾区四つ木5-10-3
<曳舟川物語>
(銘板)
「曳舟川物語
江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行われていました。
かつて、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫓でこぐのが困難でした。そこで五、六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法がありました。
篠原村の発着所には吉野屋としいう茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号の吉野屋にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそう賑わいました。
やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺にもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。」
<お花茶屋物語>
(銘板)
「お花茶屋物語
江戸時代、この辺一帯は、沼地が多く、徳川将軍のお鷹狩りの場でした。
お鷹狩りとは鷹匠によって飼いならされた鷹を放し、野鳥を捕えるというもので、毎年秋から翌年春にかけて行なわれました。
ある年の寒い冬・・・
将軍様が鷹狩りに興じていると、にわかに腹痛を起こし、近くの新左衛門茶屋と称する見世にかけこみました。新左衛門は、早速、秘蔵の銀の茶釜で湯をわかし、娘のお花に看病させました。
気だてのやさしいお花は、精一杯に介抱し、そのかいがあって将軍様の病は、不思議にもまたたくまによくなりました。
側近の家臣達はもとより、将軍様自身のお喜びは大へんなものでした。
このことがあって、将軍様はこの茶見世に「お花茶屋」の名を、またその茶釜には「公家助け茶釜」と命名しました。
そして鷹狩りの際には必ず「お花茶屋」に立ち寄るようになりました。
その後、お花の名声と茶見世の人気は高まって、近郷近在にまで知れわたり、ついにこの付近一帯の呼び名も「お花茶屋」になったといわれています。」
<無題>
<案内板/藤棚>
<曳舟橋>
<吉野園> 葛飾区四つ木4-27-6
(説明板)
「吉野園
吉野園は、江戸時代には吉野屋といい、四つ木通りの曳舟川(古上水堀)沿いの「藤棚の茶屋」として知られていました。明治時代になると「四つ木の花屋敷」と称され、20年代には吉野園を開園、堀切とともに東京名所のひとつに数えられました。
吉野園から出展された花菖蒲は、明治43年(1910)ロンドン日英博覧会で名誉賞、大正4年(1915)サンフランシスコ・パナマ太平洋博覧会では金賞を受賞しています。国際的に発展をみた菖蒲園も、昭和10年代には戦時下の影響を受けて相次いで閉園し、江戸期以来の伝統と繁栄に幕が下ろされました。
美人観吉野園花菖蒲
水野年方 明治28年(1895)(葛飾区 郷土と天文の博物館蔵)」
<曳舟一号橋>
曳舟一号から始まり、数を増やして橋碑が続いています。
<解説板「曳舟川の歴史」>
激しく摩耗している解説板「曳舟川の歴史」です。
摩耗していない同じ解説板は他にも掲示されています。
<案内板「曳舟川親水公園」>
<白川橋>
曳舟橋親水公園の終端です。ここから親水公園が続きます。
国道6号線を越えて先は「四つ木めだかの小道」が続きます。
曳舟川親水公園が国道6号線に行き当たり、その先から綾瀬川手前まで、延長260mの「四つ木めだかの小道」が続きます。
平成11(1999)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
<曳舟の井>
<ロベルト本郷と大空翼> 葛飾区四つ木2-3-3先
四つ木は「キャプテン翼」の作者の出身地です。「ロベルト本郷と大空翼」像があります。
国道6号線の向こう側は、曳舟川親水公園が続いています。
(銘文)
「大空翼の師匠であり、元ブラジル代表の日系ブラジル人。翼の才能に惚れ、成長を見守りながら、時に厳しく叱咤激励する。
「Viva Tsubasa !」 2014年3月16日建立 葛飾区」
<曳舟川の由来>
親水公園にも複数掲示のあった、説明板「曳舟川の由来」があります。
<四つ木めだかの小道>
めだかの小道の途中に、古代東海道の説明板があります。
(説明板)
「東京下町を通っていた古代東海道・周辺案内図
東海道というと、徳川家康が日本橋を基点として整備した街道をイメージします。しかし、東海道はそれ以前から西の都と東国を繋ぐ幹線道路として存在していました。
645(大化元)年の大化の改新以降、日本は唐を手本に都を造営し、全国に国・郡・里(郷)を設けるなど地方行政区画を定め、都と地方との往来を確保するために都から放射状に延びる七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)と呼ばれる交通路を整備します。
771(宝亀2)年には、東海道が葛飾区をはじめ東京の下町地城を東西に横断するようになりました。
上の図は近年判明した古代東海道の推定ルートです。立石地名の起こりとなった「立石様」は、この古代東海道の道しるべだったと考えられています。東京の下町地域は、西の都と東の常陸や、さらに陸奥を繋ぐ交通の要衝だったこともわかってきました。
葛飾区教育委員会」
「江戸名所図会」
源森川から曳舟川が北に伸びています。曳舟川の土手が小梅堤です。
小梅堤は、向島の寺社に参詣する人々が通り、茶屋が立ち賑わいました。
料亭「小倉庵」が有名で、記載されています。
「名所江戸百景小梅堤」(広重)
源森川から北に伸びる曳舟川と小梅堤が描かれています。
曳舟川沿の小梅堤は、柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人に利用されており、往来する人物が描かれています。
一番手前に描かれている橋が八反目橋です。
江戸幕府が万治2(1659)年に上水として開削し、その後、享保7(1722)年に上水としては利用されなくなりました。
上水として利用されていた時は、釣りは禁止でしたが、百景の小梅堤では釣り人が描かれています。
「絵本江戸土産 小梅の堤」(広重)
「この辺總て北本庄といふ 吾妻橋より東にあたり させる勝地にあらずといへども 掘割の水の流れは一條の帯のごとく 農人廣野に耕すさま 筆にもをさをさ及ひなき風流閑静の土地なれば 世を避るの人 とくに住して老を養なふの便とす」
「江戸高名会亭尽 本所小梅小倉庵」(広重)
小倉庵は高級料亭で、建物が1棟ごとに独立して並んでいます。
「江戸名所百人美女 小梅」(豊国・国久)
湯あがりの美人は、小倉と書かれた浴衣を着ています。徳利の袴にも小倉とあります。
「小梅曳舟通雪景」(小林清親)
広重の名所江戸百景と同じく頭巾の女が描かれています。
「小梅挽舟の雪」(井上安治)
墨田区内の曳舟川通りにある曳舟川の痕跡が、曳き舟をかたどった「曳舟川の由来碑」です。
ここは、曳舟川に架かる八反目橋があったところです。
(碑文)
「曳舟川の由来
曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(一六五九年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。
その後、享保七年(一七二二年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。
この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。
また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(八○アールの梅林)から来ているとの説もあります。
昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。
平成五年三月 墨田区」
とうきょうスカイツリー駅北交差点から、曳舟川通りを見たところです。
ここがかつての曳舟川と小梅堤です。新四ツ木橋までほぼ直線の道路が続きます。
新四ツ木橋手前の道路標です。
曳舟川を埋め立てて造られたのが、小梅児童遊園です(1956(昭和31)年)。
<おぼろけ>
161本のポールが建てられたアート作品「おぼろけ」があります。
(説明板)
「おぼろけ Oboroke 2011年制作
敷地は東京スカイツリーの目先にあり足下には様々な人、物、建物が混在しています。その足下の風景を棒のフィルターでぼやかす事でどの場所でもない抽象化されたビュースポットをつくろうと考えました。また、墨田生まれの葛飾北斎は遠景に霧雨や雲を重ねて描く事で空間の奥行きを表現していました。おぼろけな風景の中で東京スカイツリーはよりクリアに浮かび上がり新たな鑑賞のかたちをつくりだします。」
(※ GTS観光アートプロジェクトとは、東京芸術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)の共催による地域連帯プロジェクト)
「小梅児童遊園」から、東武線高架橋をくぐるところに「小梅一丁目町会神輿庫」「小梅一丁目町会会館」があります。
曳舟川の北十間川への落口の水門があった場所です。かつて水門橋と小梅橋がありました。
北十間川へ突き当る手前左手に「平和地蔵尊」があります。
小梅橋は、現在は北十間川に架かる橋です。老朽化に伴い新橋に架け替え、2020(令和2)年4月1日に開通しました。
小梅橋から墨田側方向に、「小梅橋船着場」(墨田区向島1-23地先)があります。