Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 塩の道〜小名木川(江東区史跡)

 【江東区大島】
  ○ 中川船番所跡
  ○ 旧中川・川の駅
  ○ 大島小松川公園風の広場
    ・旧小松川閘門
    ・ムー大陸よりU
  ○ 塩の道橋
  (別頁)
  ○ 陶首稲荷神社(江東区東砂)
  ○ 宝塔寺
  ○ 大島稲荷神社愛宕山勝智院
  ○ 五百羅漢跡

 【江東区北砂】
  ○ 北砂緑道公園
    ・JR貨物専用線(越中島支線)小名木川橋梁
    ・釜屋の渡しの跡
  ○ 左行秀鍛錬場跡

  (別頁)
 【江東区猿江〜森下〜常盤】
  ○ 小名木川五本松跡/五百羅漢道標
  ○ 猿江御材木蔵
  ○ 西深川橋(シーラカンス)
  ○ 万年橋川船番所跡
  ○ 正木稲荷神社
  ○ 芭蕉庵史跡展望公園


中川船番所跡(江東区史跡) 江東区大島9-1

 小名木川の旧中川への河口に、中川船番所跡があります。
 小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです(こちらで記載)。

(説明板)
「中川船番所跡 (大島九‐一)
 中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(一六六一)に、それまで小名木川の隅田川ロにあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
 また、中川対岸の船堀川 から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市 )と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。
 明治二年(一八六九)、全国の関所が廃止されたのに伴い中川番所も廃止されました。
 平成七年に行われた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。
  平成十四年 十月  江東区教育委員会」

   
 

「江戸名所図会 中川口」

 小名木川の中川口船番所が描かれています。
 役人三人が川筋を監視しています。太平の時代、見ているだけで暇職だったようです。

   
 

「名所江戸百景 中川口」(広重)

 塩の道(水路)と中川が交差する場面です。手前に小名木川(客を載せている船2艘)、中央に中川、奥に中川と江戸川を結ぶ新川(船堀川)が描かれています。
 小名木川と新川は、下総の行徳塩田から塩を運ぶために開削された運河で、2つを合わせて「行徳川」とも呼ばれました。
 中川船番所の建物は描かれていませんが、左下にわずかに石垣と柵が描かれています。

  
 

「絵本江戸土産 中川」(広重)

 江戸名所百景から少し左に寄ったアングルで、こちらは中川船番所の屋根が見えます。

  
 

小名木川河口

    

    
 

<番所橋>

 中川船番所跡から、最初の橋が「番所橋」です。
 小名木川沿には、「小名木川 しおのみち」の立札が、延々と建っています。

    
 

<向岸>

 旧中川の向岸は、大島小松川公園で、階段の上に旧小松川閘門が見えます。

   
 

<大島小松川公園から>

 大島小松川公園からの中川船番所跡の光景です。
 スカイツリーが見えます。

   


旧中川・川の駅 江東区大島9-10

 「旧中川・川の駅」が平成25(2013)年3月に開設されています。

     

   
 

<スカイダック>

 水陸両用バス「スカイダック」のスプラッシュポイントです。

  
 

<中川船番所資料館>

 川の駅の向かい側には、中川船番所資料館があります。

     

(説明板)
「旧中川・川の駅
「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ

江戸最初の運河・小名木川が開かれました
 天正18年(1590)江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後米・醤油・野菜など多くの物資や人がここを往復しました。
 沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。

1661年(寛文元年)中川番所ができました
 利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋」(江戸の奥)と
呼ばれる水体系となりました。
 関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に、寛文元年(1661)中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。

現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備
 この旧中川・川の駅は、かつて江戸の入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。
 水陸両用バスが入出水するスロープや、カヌー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。
 観光船や防災船着場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。

 もっと旧中川を知るなら、中川船番所資料館です。中川番所や関東・江戸の水運、江東区の歴史を知りたい方は、向かいの中川船番所資料館へおいでください。」

    


大島小松川公園風の広場 江戸川区小松川1-1

 大島小松川公園は、旧中川を挟んで江東区と江戸川区にまたがる公園です。
 風の広場は旧中川と荒川の間にあります。中川船番所跡の対岸にあります。

  
 

旧小松川閘門> 東京都指定歴史的建造物

 ノスタルジックな遺構「旧小松川閘門」があります。

    

    

(説明板)
「旧小松川閘門
 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
 閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
 川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
 ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
 この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、船の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。
 本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。
  国土交通省 東京都」

  
 

ムー大陸よりU>

 安藤泉氏の作品「ムー大陸よりU」が設置されています。
 ムー大陸からの来訪者との解説ですが、人面魚のシーラカンスの印象を受けます。

    

    


塩の道橋 江東区大島8丁目〜北砂6丁目・北砂1丁目

 小名木川にかかる河口から番所橋の次の2番目の橋「塩の道橋」です。
 2008(平成20)年3月架設の自転車、歩行者専用橋です。

  
 

<丸八橋方向>

   
 

<番所橋方向>

   
 

<プレート>

 橋の両端に、プレートが掲示されています。

 「明治の小名木川運河」

    
 

 「中川船番所 中川口の図 広重画」

    
 

<仙台堀川暗渠>

 橋の下には仙台堀川の暗渠からの排水を流す施設が造られていますが、泡でぶくぶくです。

   
 

<仙台堀公園>

 仙台堀公園の終端に「塩の道橋」があります。

     


北砂緑道公園 江東区北砂

<JR貨物専用線(越中島支線)小名木川橋梁> 江東区北砂2丁目

 貨物線のレンガ橋梁があります。

   
 

釜屋の渡しの跡>(江東区史跡) 江東区北砂1-3

 貨物線鉄橋のそばに説明板「釜屋の渡しの跡」が建っています。
 小名木川に上大島村(大島1丁目)と八右衛門新田(北砂1丁目)を結ぶ渡し船がありました。
 名称は、鋳物師・釜屋六右衛門・七右衛門の鋳造所があったことに由来しています。

(説明板)
「釜屋の渡し跡  (大島一‐十八〜北砂一‐三)
 釜屋の渡しは、上大島村(大島一)と八右衛門新田(北砂一)を結び、小名木川を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人びとや製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡」がありました。『大島町誌』(昭和七年刊行)によれば、大正七(一九一八)年七月五日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は、平均して一日大人二○○人、自転車五台、荷車一台で、料金は一人一銭、小車一銭、自転車一銭、荷車二銭、牛馬一頭二銭とあります。
 『城東区史稿』(昭和十七年刊行) には営業の記載があるので、それ以後に廃止されたものと思われます。
  平成九年三月  江東区教育委員会」

   


左行秀鍛錬場跡(江東区史跡) 江東区北砂1-2

  

(説明板)
「江東区登録史跡
 左行秀鍛錬場跡  北砂一‐一八・一九、二‐一七付近
 左行秀は、幕末の著名な刀工で、文化十年(一八一三)筑前国(福岡県)で生まれ、明治二○年(一八八七)に七五歳で没しました。豊永久兵衛(のち久左衛門)ともいい、南北朝時代の名工「左文字」の流れを汲む意から「左」の号を用いました。
 天保年間(一八三○?四四)の初めに江戸へ出て、刀工清水久義に入門し、弘化三年(一八四六)江戸から土佐(高知県)へ移り、翌弘化四年より土佐藩の城下で鍛刀を始めました。安政三年(一八五六)五月、三人扶持で刀工・鍛冶職として土佐藩に召し抱えられました。安政七年(一八六○)二月に江戸出府が命じられ、当時この付近にあった土佐藩下屋敷に滞在し、鍛錬場を築き刀剣を製造しました。ここで鍛刀した作品には「於東武土佐藩左行秀造之 慶応三年二月日」「於東武砂村元八幡宮北左行秀造之慶応三年二月吉日」などの銘が見られます。また、下屋敷内では当時鉄砲の製造も行っており、これに関わったともいわれています。明治元年(一八六八)土佐へ戻り、明治三年(一八七○)まで作刀を続けました。
 ここに残る石標柱は、左行秀の鍛錬場跡を示すために、東京百年の記念事業として昭和四三年に建てられたものです。」
  平成二二年七月  江東区教育委員会」

  

(標柱)
「刀工 左行秀作刀旧跡
 左行秀は江戸時代末期復古調の刀工として有名であった 行秀は北九州に生れ刀工となり江戸にでて水心子正秀の門人清水久義の弟子となりのち土佐藩の藩工となった 国鉄小名木川駅西側付近にあった土佐藩主山内家の下屋敷において作刀したことがある 行秀の作刀のなかに富賀岡八幡宮北辺おいてと銘のあるものはこの下屋敷において作刀したことを伝えている 行秀は明治初年高知県に帰り明治十八年七十四歳をもって死去した
 昭和四十三年十月一日 江東区第二十八号」

     


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