Discover 江戸旧蹟を歩く

 江東区大島

  ○ 大島稲荷神社
  ○ 勝智院



大島稲荷神社 江東区大島5-39-26 HP

 慶安年間(1648〜1651年)、洪水などの水害に悩まされた住民が、伏見稲荷大社の分霊を奉遷し産土神とて奉ったのに始まります。
 大島稲荷神社のHPによると、明治30(1897)年6月に浅草光月町入谷田圃にあった太郎稲荷(旧柳川藩立花家下屋敷邸内社)を、
 昭和19(1944)年6月に愛宕山勝智院境内の愛宕神社を合祀しています。(太郎稲荷は台東区に継続して存在しています)
 

<丸八橋から>

 小名木川にかかる丸八橋側から、大橋稲荷神社の拝殿・本殿の全景が望めます。

     
 

<小名木川対岸から>

   
 

<鳥居> 江東区文化財

 明治25(1892)年銘の鳥居です。

  
 

<松尾芭蕉像と句碑>

  
 

(説明文)

「松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社
  由緒
女木塚の裏に其日庵社中造立とありますが年代詳 この句は大坂へ旅立つ二年前の元禄五年(一六九二)芭蕉五十才の時奥の細道に旅立する前の句でありまして芭蕉は深川から船で川下りをして神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中船を留て当神社に立寄り参拝を致しまして境内の此の森の中で川の流れを眺めながらその際、詠んだのがこの句であります。
  秋に添いて行かはや末は小松川
の句を残しております。
 その後年其日庵の俳人たちが芭蕉をしのんでゆかりの深い大島稲荷神社に句碑を建立その面影が偲ばれます。
 建立は江戸時代といわれ拓本をとる人も多い。松尾芭蕉が奥の細道に旅立って今年元年が三百年目の年に当ります。
  大島稲荷神社」

    
 

<芭蕉句碑>

 「俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑
   五月雨をあつめて早し最上川
      大島稲荷神社 平成元年九月十九日
           第六代宮司佐竹良子建之」

   
 

<女木塚碑> 江東区文化財

 表「女木塚」
  「秋に添て行かばや末は小松川」

 裏「其日庵社中造立」

   
 

<松尾芭蕉翁石造像>

    
 

(碑文)

「大島稲荷神社御鎮座三百五十年大祭記念
 松尾芭蕉翁石造像建立之詞書
当神社境内に保存されている「女木塚」句碑にある一句は元禄五年翁が深川より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し句会で詠まれたもので
  秋に添て行ばや末ハ小松川
としたためられております。
その後芭蕉翁歿後其日庵社中により神社にこの句碑が建立されました。本句碑は歴史的価値により、江東区有形文化財に登録されております。平成十三年九月十九日には、大島稲荷神社御鎮座三百五十年式年大祭が開催されました。輝かしい佳節を迎え総代氏子崇敬者一同記念事業の一環として、茲に三百五十年史として緑り深いこの地に遺徳を偲び、其日庵社中に感謝の意をこめて翁の石造像建立して後世に伝えることに相成ました。
  平成十三辛巳年九月十九日建之
        大島稲荷神社第六代宮司 佐竹良子(以下省略)」

  
 

<その他>

 双体道祖神ですかね。

   
 

<その他>

 芭蕉像の反対側にある不詳の石碑です。

  
 

<大島稲荷神社御由緒>

 「俳人 松尾芭蕉 句(秋に添て 行はや末は 小松川)
  俳人 小林一茶 句(水売の いまきた顔や 愛宕山)
  俳句碑を残してをります。」
 とありますが、小林一茶句碑は見当たりませんでした。

 御由緒碑の前に百度石があります。力石に見える百度石です。

     
 

<西参道>

     
 

<大島稲荷神社 大島神社 年中行事>

 「大島稲荷神社 大島神社 年中行事」です。

  
 

<小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社>

(説明板)
「小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社
  信州大小林講師が「水売」の句で推定
           享和三年七月七日
  かぢの音は耳を離れず星今宵
  七夕の相伴に出る川辺哉
 享和句帖三年九月十九日の条に稲荷祭とあるのは当神社の御祭礼の事である
  水売の今きた顔や愛宕山(文政二年)
 当地大島あたり飲水が悪く小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売りにきていた事が伝えられている。
 (懐かしき大正時代 江東大島の思い出)」

  
 

<大祓神事>

(説明掲示)

「大祓神事
 大祓は、氏子中の人々の心や身体に色々な良く無いことが起る原因を取り除き、幸福と繁栄を迎えるために諸々の罪穢を祓ひ清め清明心を自己の内に培う神事です、大島稲荷神社では毎年六月三十日、十二月三十一日の年二回、大祓式を厳修し、氏子の皆様からお預かり致した人形を水清き河海に流し清めるか、清浄地において御浄火にふして罪穢消滅を祈願いたします。
 茅の輪の由来
 神代の昔、素戔嗚尊様が大勢の神々等と日本の国土に住まいする人等の平和と産業の発展の為に諸国を視察して廻っている時ある貧しい一軒の家で(蘇民将来と云ふ人)一夜の暖かい待遇を受けられた事を大変感謝され「もし世の中に悪疫(悪い病気)が流行だしたらチカヤをもって輪を作り腰の上にかければ必ず一切の悪疫から免れる事が出来る」とお教へ下さった。(備後風土記)此の故事に習って、茅の輪の信仰が広まり現在では鳥居に輪を作り、くぐる事によって、悪疫を免れると云ふ教えが行われています。
 輪のくぐり方
 正面より左にくぐり右・左にくぐる(8の字形)
 昔は輪をくぐる度毎に次の歌を誦してくぐり、お参りをしました
 一.母の分も一つくぐる茅の輪かな(一茶)
 一.思ふ事皆つきぬとて麻の葉を切りて切りて、祓へつるかな(和泉式部)
 一.六月の夏越の祓いする人は千歳の生命延といふなり(読人不知)
 一.宮川の清き流れにみそぎせば祈れることの叶わぬはなし」(読人不知)
   大島稲荷神社」

    
 

<佐竹神社>

   

    
 

<出世開運牛>

 親子の牛の石像です。

 「この親牛は商産業白い子牛は子供の頭脳授 自分の生まれ歳の干支の所をなでて無事成長を神社に祈念して下さい」

    
 

<手水舎> 江東区文化財

 石水盤は江東区文化財です。
 手水舎の後ろに三猿がいます。

   
 

<社務所>

 社務所に狛犬です。

     
 

<拝殿>

 狛犬は、江東区文化財です。

   

    



勝智院 江東区大島5-39-30

 愛宕山勝智院は道路計画のため、昭和41年に佐倉市に移転、現在地には出張所が残っています。
 小林一茶が享和3(1803)年から文化元(1804)年まで勝智院に住んでいたようです。
 荒川辺八十八ヶ所霊場第76番札所でした。

    

     
 

<墓苑造成中>

   
 

 寛文12(1672)年6月銘の石造物です。

    
 

「南本所羅漢寺ヨリ中川迄」(天保十一年八月 国立国会図書館蔵)

 国立国会図書館所蔵の天保11年の地図より抜粋です。
 「勝智院」「稲荷」が小名木川沿いに描かれています。

   


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