Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 丸の内 東京駅

  ○ 東京駅(国重要文化財)
  ○ 井上勝君像      (丸の内駅前広場) 別頁
  ○ アガペーの像(愛の像)(丸の内駅前広場) 別頁
  ○ 東京駅復元ポスト   (中央口改札内)  別頁


○東京駅 国重要文化財 千代田区丸の内1丁目

<新永間市街線高架橋>

 新銭座と永楽町間を結ぶ「新永間市街線高架橋」は、
 明治43(1910)年9月、浜松町、烏森(現・新橋)、有楽町を経て呉服橋仮停車場まで開通しました。
 大正3(1914)年12月には中央停車場が完成し、呉服橋仮停車場は廃止、停車場を駅と改称し東京駅が開業しました。
 

「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)

  数寄屋橋から新橋方向               呉服橋右手が呉服橋停車場本屋             開業時の東京駅地図
    

 大正元年の麹町区の地図からの抜粋です。
 東京駅はまだ開業していないので「中央停車場敷地」と記載されています。
 永楽町二丁目に「呉服橋停車場」が記載されています。

  
 

辰野堅固>

 中央停車場の駅舎建設工事は1908年3月に起工されました。「日比谷入江」跡の軟弱な地盤を強化するため、杭丸太が1万800本打ち込まれました。
 鉄骨組立には3157tの鉄材が使用され、「石川島造船所」(現「IHI」)が請け負いました。1911年9月に組立工事が完了しました。
 構造用煉瓦には、渋沢栄一の「日本煉瓦製造」の煉瓦が使用されました。
 東京駅を設計した辰野金吾は、設計の頑丈さから「辰野堅固」とも呼ばれており、
 日比谷入江の軟弱な埋め立て地に建つ東京駅が関東大震災を乗り切ったのは、さすが「辰野堅固」といったところです。

 鉄骨完成全景「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)

  

 鉄骨組み立て工事の光景ですが、高架線にはすでに呉服橋駅発着で営業運転していた電車が見えます。
 「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)

  

「辰野金吾肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  嘉永7年8月22日〜大正8年3月25日(1854年10月13日〜1919年3月25日)

   
 

<東京駅の設置>

 東京駅は、永楽町1丁目及び八重洲町2丁目に設置され、皇居側に「八重洲町口」が開かれました。

  東京駅全景「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)

  

  東京駅構内「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)
  
 

「井上勝銅像」(東京市街高架鉄道建築概要 鉄道院東京改良事務所 1914年)

 大正3(1914)年の東京駅開業に合わせて、本山白雲による「井上勝」の銅像が設置されました。
 (現在の銅像はこちらで記載

   
 

<乗降口>

 中央が皇室専用口で、北側が降車口、南側が乗車口と分かれていました。
 東京市電丸ノ内線の停留所も「東京駅降車口」と「東京駅乗車口」とがありました。
 停留所は、後にそれぞれ「東京駅丸ノ内北口」、「東京駅丸ノ内南口」に、改称されています。

  
 「古図より見たる丸ノ内」(三菱合資会社地所部 1929年)より抜粋引用
 

<関東大震災からの復興 東京駅>

 関東大震災から7年目の昭和5(1930)年に発行された「大東京寫眞帖」(1930年 国立国会図書館蔵)からの抜粋です。

 「飛行機から俯瞰した丸の内東京驛附近」
  東京駅の東側には「八重洲通り」と「八重洲橋」が完成しています。
  旧「丸ビル」は中空の構造となっているのがわかります。

  

 「東京駅前の光景」
  大名小路と行幸道路の角に、旧「丸ビル」が見えます。
  中央郵便局は大正11(1922)年1月4日に漏電により焼失、新たに建設している状況が見えます。
  写真中央下には、「井上勝像」が見えます。
  解説には、円タク(市内を1円均一で乗せたタクシー)が群がっているとあります。
  また、三越が赤自動車、白木屋が白自動車で無料で各店に丁寧に乗せていってくれるとあります。

  

 「デパートメントの食堂」
  無料送迎でデパートに着くと、デパートの食堂が人気でした。
  震災後、商品サンプルと価格を提示する食堂が増えていきます。
  食事スタイルも、それまでの履物を脱いで畳に上がる形から、土足のまま腰掛けて食事ができるようになりました。
  特に女性が外食をしやすくなったと言われています。(国立国会図書館の解説を参照しました)
  写真には着物の女性が多く写っています。
  食品サンプルの棚の上段にはスイカが見えます。店内の柱には「プリン」の文字が見えます。

  

 「東京駅 噴泉浴場」
  東京駅乗車口地階(現在の丸の内南口)に「荘司調髪所」が設けた噴水浴場がありました。
  他に本業の調髪所があり、喫茶室もありました。
  「荘司調髪所」は百万円をかけて噴水浴場をこしらえ、昭和2(1927)年10月に開所しています。
  入浴料金は30銭です。当時の東京の銭湯の料金が5銭なので、今の価値だと三千円ちょっとで高いです。

 (参考)
  「荘司調髪所」 HP 
   明治3(1870)年、東京常磐橋際に「庄司」創業。理容店として日本で初めて赤青白のサインポールを置く。
   二代目の時に東京駅地階に店舗を構える高級大型理髪店となり、「庄司」から「荘司」へ変更。
   昭和7(1932)年、「荘司調髪所」の支店として、大阪難波に進出し、現在に至っています。

  右の写真は入浴券の販売機かと思ったら、説明を読むと違っていました。
  鉄道の自動切符販売台で、十銭を穴に投げ込むと入場券が飛び出します。
  均一区間の乗車券発売用で全国の駅に設けられるのに先駆けて東京駅に設置されました。
  英語文には「the ticket slot-machine」とあり、スロットマシン感覚なのですね。

    
 

<八重洲橋と八重洲通り>

 明治17(1884)年に外濠に「八重洲橋」が架けられていました。
 橋名は、日本橋区・京橋区(現在の中央区)から麹町区八重洲町に通じることから付けられました。
 八重洲橋は東京駅開業に伴い廃止されました。
 昭和4(1929)年、関東大震災の復興事業の一環として日本橋区・京橋区の区境の道路が、拡幅・整備され「八重洲通り」が完成、
 「八重洲橋」が再び架橋されました。
 外濠が埋め立てられ、昭和23(1948)年に八重洲橋は撤去されました。

 日本橋三丁目交差点→東京駅八重洲口の「八重洲通り」

   
 

<八重洲橋停留所>

 大正元(1912)年の地図を見ると、東京駅は中央停車場敷地とあり建築中です。
 八重洲橋はすでに撤去されています。
 東京市電外濠線(明治37(1904)年東京電気鉄道開通、東京鉄道を経て明治44(1911)年東京市電)の停留所「八重洲橋」にその名前を残しています。

  
 

<八重洲橋口→八重洲口>

 昭和4(1929)年、新たに東口に「八重洲橋口」が設けられました。
 昭和4(1929)年に「八重洲町」は麹町区丸ノ内二丁目に改称され八重洲町は消滅します。
 「八重洲町口」は「丸の内口」に、「八重洲橋口」は「八重洲口」に改まります。
 昭和29(1954)年には、かつて八重洲町と八重洲橋で結ばれていた東京駅東側一帯の「日本橋呉服橋」及び「槇町」が、
 それぞれ「中央区八重洲一丁目」及び「中央区八重洲二丁目」となりました。
 現在の丸の内は、旧八重洲町及び旧永楽町の町域を踏襲しているので、
 東京駅の東側の外堀通りの手前まで、千代田区丸の内です。外堀通りとその東側が中央区八重洲です。
 このため、大丸東京店や東京駅一番街は八重洲口にありますが、所在地の住所は千代田区丸の内です。
 東京駅八重洲南口バスターミナルも所在地の住所は千代田区丸の内です。
 外堀の地下にある八重洲地下街は、中央区八重洲です。

 千代田区(丸ノ内1丁目)と中央区(八重洲1丁目・八重洲2丁目)の区境

  
 

<八重洲町通り>

「日本風景風俗写真帖」(小川一真 明治43年)
 日本語タイトルは「八重洲町通」で、英語タイトルは「A new street looking toward the Imperial Palace, in Tokyo.」
 馬場先門から東へ「三菱ヶ原」の中を抜けて、右手の東京府庁に至る道が開通「八重洲町通」とあります。
 写真右手に馬水槽が見えます(こちらで記載)。
 八重洲町が存在していた時の名称でしょう。

   
 

<東京駅丸の内駅舎(国重要文化財)と丸の内駅前広場>

    

  
 

<丸ノ内駅前広場の銅像>

 北側に「井上勝像」、南側に「アガペーの像」

   


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