○ 井上勝君像
○ 高輪築堤の建設
○ 小岩井農場の開設
○ 井上勝の墓 別頁
東京駅「丸の内駅前広場」に「日本の鉄道の父」と称される「井上勝君像」が建っています。
初代の銅像は東京駅開業に合わせて大正3(1914)年建立、昭和19(1944)年に戦時中の金属供出に伴い撤去されました。
昭和34(1959)年、井上勝の没後50年を記念して、朝倉文夫氏の製作により再建されました。
平成19(2007)年、東京駅舎の復元工事に伴い、撤去されていましたが、平成29(2017)年12月に再設置されました。
<東京駅丸の内駅舎(国重要文化財)と丸の内駅前広場>
東京駅丸の内駅舎は辰野金吾による設計です。
工事中は「中央停車場」の名称でしたが、開業時に「東京駅」となりました。
「辰野金吾肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
嘉永7年8月22日〜大正8年3月25日(1854年10月13日〜1919年3月25日)
「正二位勲一等 子爵 井上勝君像」
「初代銅像」(東京市街高架鉄道建築概要 鉄道院東京改良事務所 1914年)
金属供出により撤去された、本山白雲による初代の銅像です。
(プレート文)
「井上勝(一八四三年〜一九一○年)
明治期の鉄道専門官僚
江戸時代末期の長州藩(現在の山口県萩市)に生まれる。一八六三年(文久三年)、英国ロンドンに密航留学し、西欧の近代技術を学び、明治維新直後一八六八年(明治元年)に帰国。
一八七二年(明治五年)、日本最初の新橋ー横浜間をはじめ、初期の主要路線の敷設を主導する役割を担い、この功績から「鉄道の父」と呼ばれている。
一九一○年(明治四十三年)、欧州鉄道観察中に病に倒れ、若き日に過ごしたロンドンで息をひきとる。享年六十八歳。」
(碑文)
「君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云大正三年十一月建」
「井上勝肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より引用加工)
2枚目は、英国留学中の作業実習の際に撮った、スコップに足をかけたシャツ姿の写真です。
井上勝(天保14年8月1日〜明治43年8月2日:1843年8月25日〜1910年8月2日)は、「日本の鉄道の父」と称されています。
幕末にイギリスに密航・留学した伊藤博文、井上馨ら5人の長州藩士(長州五傑)のうちの一人で、
帰国後は、明治5(1872)年の新橋〜横浜間の鉄道敷設を始めとして、東海道本線、東北本線など、数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたり、
日本の鉄道事業の基礎を作りました。
新橋〜横浜間の鉄道建設予定地には軍用地や薩摩藩の藩邸があり、激しい反発がありました。
そこで井上勝らは海上に堤を築き、その上に線路を通しました。
鉄道開業時の式典列車には、天皇皇后への説明係として井上勝が同乗、
政府首脳も同乗し、鉄道建設に反対した西郷隆盛も乗車しています。
(高輪築堤についてはこちらで記載、旧新橋停車場跡についてはこちらで記載)
明治21(1888)年6月、井上勝は、鉄道局の長官として東北線の延伸工事視察のため、この地を訪れました。
一面に広がる荒野をみて、鉄道敷設のため、数多くの「美田良圃」を潰したことに対する悔恨の念から、
ここを開墾して、本格的な農場を建設しようと念願しました。
農場開設に協力を得た小野義眞、岩崎彌之助、そして井上勝の3氏の頭文字を1字ずつとって小岩井と命名しました。
小岩井さんとは1人のお名前ではなく、「小野さん」「岩崎さん」「井上さん」の3人のお名前の頭文字だったのですね。
(「小岩井農場>小岩井農場の歴史>創業者の思い」を参照しました。)
<小岩井ヨーグルト>
「小岩井生乳(なまにゅう)100%ヨーグルト400g」などで使われているアルミぶたに、
小岩井広報欄があり、vol.1にはー「小岩井」の由来ーが書かれています。
他に「小岩井農場をこよなく愛した宮澤賢治」「小岩井農場の一本桜」「開発のきっかけ」の4パターンで、ランダムに入っています。
「小岩井広報欄
小岩井農場めぐり
ーvol.1「小岩井」の由来ー
岩手南麓に広がる「小岩井農場」は、もとは火山灰土に覆われた不毛の原野でした。
それを見た井上勝が、小野義眞と岩崎彌之助の多大な協力を得て開墾耕作を開始。
日本最大の民間農場として、1891年(明治24年)に開設し、現在に至っています。」
小岩井の3人