Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 品川硝子製造所跡
 
 ○ 東海寺大山墓地

    ・利休居士追遠塔
    ・澤庵和尚廟(国史跡)
    ・賀茂真淵墓(国史跡)
    ・服部南郭の墓
    ・本居内遠墓
    ・渋川春海墓(品川区史跡)
    ・井上勝墓(鉄道記念物)
    ・島倉千代子の墓
    ・西村勝三之墓
    ・細川家家臣の墓


官営品川硝子製造所跡 品川区文化財 品川区北品川4-11-5

 「官営品川硝子製造所跡」が、東海禅寺大山墓地に向かう道の脇にあり、
 反対側には大山墓地にある墓の案内があります。
 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治6(1873)年に東海寺境内に創設された興業社で、
 興業社は、明治9(1876)年に工部省に買収され官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献しました。

     
 

<品川区標柱>

 (正面)「史跡 官營品川硝子製作所跡」
 (左面)「品川区文化財 昭和三十八年三月一日 品川区教育委員会」
 (裏面)「昭和四十年十二月吉日建之」

   

(説明板)
「品川区指定史跡
 官営品川硝子製造所跡
  所在:品川区北品川四丁目十一番五号
      第一三共株式会社前
  指定:昭和五十三年十一月二十二日(第八号)
 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。
 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九二)に解散した。
 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
  平成二十七年八月三十一日  品川区教育委員会」

  
 

<珪石>

 碑の脇にはガラスの原料となる珪石が置かれています。

     
 

○東海寺大山墓地道標

 東海寺大山墓地へは、ここから線路沿いの道を進みます。

「東海寺大山墓地
 沢庵和尚墓(国指定史跡)
 賀茂真淵墓(国指定史跡)
 渋川春海墓 (品川区指定史跡)
 西村勝三墓
 井上 勝墓
 ←---------」

     


東海寺大山墓地 品川区北品川4-11-8

 東海寺は明治維新でその土地を政府に取り上げられ、現在は北品川3丁目の離れた場所にあります。
 東海寺大山墓地は、かつて東海寺の裏山だった場所で、国史跡の沢庵和尚墓等があります。
 細川家が東海寺に寄附した細川家下臣の墓もあります。
 

「江戸名所図会 牛頭天王社・東海禅寺 其三・其四」

 其三と其四を連結しています。明治維新前の東海禅寺の全容が伺えます。

  
 

<江戸切絵図>

 江戸切絵図に見る「東海寺」です。

  
 

<しながわ百景 東海寺大山墓地>

 東海寺大山墓地道標から線路沿いに進み、「しながわ百景 東海寺大山墓地」に到着です。

   
 

<道標「東海寺開山 澤庵禅師墓道」>

 階段入口に明治13(1880)年銘の澤庵墓への道標があります。
 「東海寺開山 澤庵禅師墓道」とあります。

     
 

<東京府標柱「史蹟 澤庵墓」>

 左に進む石段と、直進する道があります。
 石段の脇に東京府の史蹟標柱があります。

 (正面)「史蹟 澤庵墓」
 (右面)「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ
      大正十五年十月内務大臣指定」
 (左面)「昭和三年四月建之 東京府」

   
 

<慈隠塔(亀趺碑)>

 石段を登りきると、右手に宝暦3(1753)年銘の亀趺碑があります。
 江戸名所図会の本文には「慈隠塔」と記されています。
 江戸名所図会挿絵から、「澤庵和尚廟」と「慈隠塔」の抜粋です。

  

 慈隠塔の四面には、びっしりと銘序として澤庵和尚の行実が刻されています。

     

 裏には、江戸城の石垣によく見られる矢穴石が転がっています。何でしょうかね。

  
 

利休居士追遠塔

 沢庵墓の前には、天明3(1783)年銘の千利休の追悼碑があります。

   
 

澤庵和尚廟(沢庵宗彭の墓) 国史跡

 大きな細長い自然石を墓標とする澤庵の墓です。
 澤庵は、塔や像、碑を建てるななど、14条の遺戒を残し、最初は質素な墓が作られましたが、
 後に徳川家光は追慕の念から現在の墓を小堀遠州に築造させたと伝えられています。

   

 江戸名所図会挿絵から、「澤庵和尚廟」部分の抜粋です。

  

(説明板)
「国指定史跡 沢庵墓
  指定年月日 大正十五年十月二十日
  指定面積 一二七・五平方メートル
  所在地 品川区北品川四丁目十一番八号(東海寺大山墓地内)
 沢庵(一五七三〜一六四五)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭、沢庵は道号。但馬国出石(現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長十四年(一六○区)大徳寺の一五三世住持となった。
 寛永六年(一六二九)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現、山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。三年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永十六年(一六三九)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保二年(一六四五)十二月没、七十三歳。
 沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。
  平成二十二年三月十五日  品川区教育委員会」

  
 

<夢塔(合葬墓)>

 澤庵和尚廟の裏手に、沢庵和尚の遺偈(ゆいげ)となった夢の一文字刻んだ「夢塔」が建っています。
 平成5(1993)年に合葬墓として建立されています。

   
 

 夢塔の脇にある「夢塔之記」には、遺偈が刻まれています。
 「夢
  百年三萬六千日
  弥勒観音幾是非
  是亦夢非亦夢
  弥勒夢観音亦夢
  佛云應作如是観矣
  澤庵埜老卒援筆」

  
 

「澤庵禅師肖像」(「先哲像傳」徳齋原義正道 国立国会図書館蔵)
  天正元年12月1日(1573年12月24日)〜正保2年12月11日(1646年1月27日)

  
 

賀茂真淵墓 国史跡

 東海寺大山墓地入口から、左手の石段ではなく、線路に沿った坂道を進むと、
 左手に国指定史跡「賀茂真淵墓」があります。
 賀茂真淵は、江戸時代の国学者で歌人です。
 石塀に囲まれた広い墓域の入口には、寺であるにもかかわらず鳥居があります。

    
 

<東京府標柱>

 (正面)「史蹟 賀茂真淵墓」
 (右面)「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ
      大正十五年十月内務大臣指定」
 (左面)「昭和三年四月建之 東京府」

    
 

<賀茂翁墳墓改修碑>

 石鳥居をくぐってすぐ右手にある明治21(1888)年銘の改修碑です。

   
 

<真淵碑>

 鳥居の先、左手に真淵碑があります。
 賀茂真淵の門人である加藤千蔭による書です。享和元(1801)年銘です。
 江戸名所図会にも描かれています。

  
 

<賀茂縣主大人墓>

 墓の左手に建っています。
 賀茂真淵の門人である加藤千蔭による揮毫です。
 江戸名所図会にも描かれています。

  
 

<贈従三位賀茂真淵卿之墓>

 墓の右手に建っています。折れた補修跡があります。

  
 

<真淵墓石>

 墓石は、真淵の「方円論」が反映されており、半円形の自然石となっています。

   
 

 「江戸名所図会」には「少林院林泉県主大人墓」が描かれています。
 「賀茂縣主大人墓」と「真淵碑」が見えます。

   

  江戸切絵図に見る「少林院」からの移設です。

  
 

<加茂真淵像>(「肖像」野村文紹 国立国会図書館蔵)

  
 

服部南郭の墓

 「沢庵和尚廟」の真裏に「服部南郭の墓」が西向きに建っています。
 服部南郭(はっとりなんかく)(天和3年9月24日(1683年11月12日)〜宝暦9年6月21日(1759年7月15日))は、
 江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家で、荻生徂徠の高弟として知られます。
 左は江戸名所図会にも描かれている「服部南郭の墓」で、右は南郭先生の配・井出氏の墓で南郭の妻が弔られています。
 近くには服部南郭の一族の墓がずらりと並んでいます。

    
 

<史蹟>

 「史蹟 服」と木標柱の正面に書かれています。
 折れたのでしょうね、服部南郭の服の文字だけ、上半分だけ保存されているようです。
 左側面には大正十五年、右側面には大正十四年とあります。

     
 

 <江戸名所図会 南郭先生墓>

  江戸名所図会に「加茂縣主大人墓」のすぐ近くに「南郭先生墓」が描かれています。
  江戸名所図会に描かれている少林院から、現在地に移設されています。

   
 

本居内遠墓

 本居内遠(うちとお)は、本居宣長から3代後の当主です。
 墓石には「本居内遠奥津伎」とあります。

  
 

渋川春海墓 品川区史跡

 渋川春海は囲碁棋士であり天文暦学者で、日本固有の暦として「貞享暦」を作成しました。
 春海は本所の屋敷内に司天台(天文台)を設けて天体の観測に当たりました。これが江戸で最初の天文台です。
 (浅草天文台については、こちらで記載
 棋士・二世安井算哲として、道悦に対してはいい勝負でしたが、
 道策の対戦で、算哲「初手天元の局」が有名ですが(結果は道策の9目勝ち)、道策には大幅に負けています。
 

<東海道新幹線>

 墓地の西は東海道新幹線が真横を通過します。
 掲示の初代新幹線車両の表情が好いです。

    
 

<渋川春海墓>

 一列に並んだ一族の墓の左端にある「大虚院透雲紹徹居士」と刻まれた墓石が「渋川春海墓」です。
 左隣りは「大虚院透雲紹徹居士」と刻まれ、左側面に「贈従四位 渋川助左衛門源春海」とあり、
 明治40(1907)年に改暦の功績によって従四位が贈位された際に建立された墓石です。
 東海寺大山墓地にあるのは、天文方渋川家の墓で、囲碁家元安井家の墓は、浄心寺(江東区平野)にあります。

    
 

(説明板)

「品川区指定史跡
 渋川春海墓
  所在 北品川四丁目十一番 東海寺大山墓地
  指定 昭和五十三年十一月二十二日(第六号)
 渋川春海は、寛永十六年(一六三九)に京都で生れ、十四歳で父の跡をついで幕府の碁所となり安井算哲(二代)と称した。囲碁の研鑽の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。
 その頃、日本では中国の宣明暦を使っていたが、二日の誤差があったので、春海はみずから計算して新しい暦を作った。これが貞享元年(一六八四)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦として後の太陰暦の基本となったのである。
 貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって、幕府最初の天文方に任ぜられ、本所(墨田区)に、宅地を拝領した。春海は、屋敷内に司天台(天文台)を設けて天体の観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。
 春海は正徳五年(一七一五)十月六日に七十七歳で亡くなり、この地に葬られた。
  平成十九年三月一日  品川区教育委員会」

  
 

○頭上是天脚下是地

 「頭上是天脚下是地」碑です。
 明治17(1884)年の鉄道工事の際に出土した白骨を慰霊するため、明治19(1886)年に建立した碑のようです。

  
 

井上勝墓 JR鉄道記念物

 井上勝墓は、西は東海道新幹線・山手線、東は東海道本線・京浜東北線に挟まれた場所にあり、
 井上勝の死後も鉄道を見守っていたいという意向から、生前にこの地を選んで墓としました。
 (井上勝銅像については、こちらで記載

    
 

<JR標柱>

 「鉄道記念物 井上勝墓」の標柱が建っています。

 (正面)「鉄道記念物 井上勝墓」
 (左面) 昭和三十九年十月十四日 指定」
 (右面)「建植年月日 平成十年十月十四日
      東日本旅客鉄道株式会社」
 (裏面)「日本国有鉄道
      鉄道友の会」

   
 

<線路に向くJR標柱>

 同じJR標柱が東の線路際にもう一基あります。正面は線路に向いています。
 以前は、線路の向こう側の権現山へ渡る陸橋でもあったのでしょうかね。
 それとも電車から見えるように建てたのでしょうか。

     
 

<説明パネル>

「初代鉄道頭 井上勝 1843(天保14)年〜1910(明治43)年
 “鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地として東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。」

  
 

<井上家先祖之墓/墓誌>

 井上家墓域の小面に「井上家先祖之墓」「墓誌」があり、右手に一族の墓が線路に沿って並んでいます。

   
 

<井上勝墓>

 墓域の左手に「井上勝墓」はあります。
 墓標には3人のお名前が刻まれています。

 「故陸軍工兵大尉正五位勲五等井上亥六」(勝の息子、明治39年5月2日逝去)
 「子爵夫人井上宇佐子」(勝の妻、明治40年1月5日逝去)
 「正二位勲一等子爵井上勝」(井上勝、明治43年8月2日逝去)

    
 

島倉千代子の墓

 井上勝墓の向かいには、立派な島倉千代子の墓があります。
 戒名「寳?院千代歌愛大姉」が刻まれています。

    
 

<島倉家之墓>

 島倉千代子の父母、兄弟姉妹の島倉家墓です。

   
 

西村勝三之墓

 東海寺大山墓地入口から線路沿いに井上勝墓に向かう途中の左手に「西村勝三之墓」はあります。
 西村勝三は、日本製靴株式会社(現:リーガルコーポレーション)の創立者です。
 石燈籠が全て倒壊したままで、寂しい印象を受けます。
 西村勝三は、晩年、品川御殿山に邸を構えました。
 (靴の歴史について、こちらで記載

    

    
 

 勝三の墓には、妻「西村けむ」も一緒に弔られています。
 左横は「西村家之墓」で、右横には「西村勝三室信子之墓」があります。
 西村勝三の妻は「琴」「けむ」「信子」とおられたようです。

    
 

「製靴図集」(東京靴工倶楽部 明治32年)

  
 

「人物と事業 桜組の主人公 西村勝三」(石尾信太郎 明治36年)

  
 

<西村謙吉之墓>

 西村勝三の墓地の隣に、甥で養子となった「西村謙吉之墓」があります。

  
 

細川家家臣の墓

 墓所の一角に一列に並んだ墓があります。
 旧肥後熊本藩細川家家臣及びその一族の墳墓地です。

   
 

(掲示)
「この墓所は、旧肥後熊本藩細川家家臣及びその一族の墳墓地で、第十八代細川家当主細川 護煕殿より平成二十三年五月宗教法人東海寺へご寄付していただいたものです。
  臨済宗大徳寺派 宗教法人東海寺」

  


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