Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 蔵前@

  ○ 町名由来旧浅草蔵前
  ○ 天文台跡
  ○ 榧寺
  ○ 蔵前神社


町名由来旧浅草蔵前 台東区浅草橋3-20-11

 蔵前一丁目交差点の歩道に、説明板「天文台跡」と並んで「町名由来 旧浅草蔵前」があります。
 
(説明板)
「旧町名由来案内 下町みちしるべ
  旧 浅草蔵前
 本町は、付近の九ヶ町を整理統合して昭和九年(一九三四)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(一六二一)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府 の米蔵 があったことから付けられた。
 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するために造られた倉庫で三ケ所あった。大阪、京都二条と御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地し造成された。当時、六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地をもたない旗本・御家人に支給する給料米であった。
  台東区」

    
 

「浅草蔵前夏夜」(小林清親)

 ガス燈が連なっている蔵前の夜景は、日光街道でしょうか。

  
 

「御藏前の雪」(江戸名所道戯尽廿二 歌川広景)

 蔵前の日光街道での光景かと思います。
 男が魚と葱を雪だるまの上に置いて、下駄の鼻緒を結び直しています。
 野良犬が魚を狙っています。
 江戸時代の雪だるまは、文字通りの達磨を作っていました。

  
 

「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)

 雪だるまは、達磨です。

  


天文台跡 台東区浅草橋3-20-11

 蔵前橋一丁目交差点の歩道に説明板「天文台跡」があります。
 伊能忠敬は、天文方高橋至時に弟子入りしています。

(説明板)
「天文台跡  台東区浅草橋三丁目
 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目二十一・二十二・二十三・二十四番地の全域及び十九・二十五・二十六番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(一七八二)牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約九十三・六メートル、高さ約九・三メートルの築山の上に、約五・五メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは九メートルだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『「富獄百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改歴に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。
 また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(一八一一)天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保十三年(一八四二)九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

    
 

「富嶽百景 鳥越の不二」(葛飾北斎 国会図書館蔵)

 葛飾北斎の浮世絵に浅草天文台が描かれています。
 天球儀の向こうに不二が見えます。

  
 

「江戸切絵図」

 説明板にある「頒暦所御用屋敷」が、鳥越川の北一帯に描かれています。

  
 

「寛政暦書」

 説明板にある「寛政暦書35巻」(国立国会図書館蔵)から、
 天文台の測量臺、蘭天儀、星鏡儀の挿絵です。

    

   


榧寺 台東区蔵前3-22-9 HP:かや寺について
 
 榧寺は、元は正覚寺と称しましたが、境内の榧の大木にちなんで、
 元禄初年頃より「榧寺」の名で知られてきました。
 

「江戸名所図会 正覚寺 一に榧寺ともいえり 八幡宮」

 挿絵の右に「正覚寺」(現在の榧寺)、左に八幡宮が描かれています。
 両寺社とも日光街道(現在の江戸通り)に面しています。明治維新時の寺社領上地で、寺領はかなり狭まり、
 現在は日光街道とは接していません。

   
 

「大倉前」と「御馬や渡し」部分の拡大
 手前右の隅田川に「御馬や渡し」とあります。
 浅草御蔵は雲に隠れ、「この辺御米蔵あるゆえに大倉前と唱ふ」と説明だけ記載されています。

  
 

「江戸切絵図」

 「正覚寺 榧寺ト云」とあります。

  
 

○山門前のパネル

<東京都指定旧史跡 石川雅望墓>

 山門前右手に説明板「東京都指定旧史跡 石川雅望墓」があります。
 墓は墓地の左奥にあります。

(説明板)
「東京都指定旧史跡
 石川雅望墓
   所在地 台東区蔵前三の二二の九 萱寺(正覚寺)墓地内
   仮指定 大正一三年二月五日
   指 定 昭和三○年三月二八日
 石川雅望(一七五三ー一八三○)は江戸後期の国学者、狂歌師です。旅館糟屋七兵衛こと浮世絵師石川豊信の子として生まれ、六樹園、五老斎などと号しました。国学を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といいました。天明年間に狂歌檀に台頭し、狂歌四天王に数えられます。寛政三年、宿屋経営に関連して江戸を一時離れますが、このころ、国学に務め「源註余滴」や「雅言集覧」を著します。文化期には狂歌極に復帰し、文化文政時代の狂歌界を鹿津部真顔と二分する勢力となります。真顔の俳諧歌体に対して俗情俗語の狂歌の軽妙さを主張しました。
「(百人一首)古今狂歌袋」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」などの狂歌撰集の他「草まくら」などの紀行文もあります。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

    
 

榧寺の高灯篭、御馬屋川岸乗合」

 榧寺山門前右手に、葛飾北斎「榧寺の高灯篭、御馬屋川岸乗合」のパネルが掲示されています。
 御厩川岸の渡しを描写しています。渡しはいつも満員で転覆事故が多く、「三途の渡し」とも呼ばれました。
 画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。
 これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
 隅田川テラスにも同じパネルが解説付で展示されています。

  
 

<銅造観音菩薩坐像> 台東区有形文化財

 山門前の左手に、説明板「銅造観音菩薩坐像」があります。
 宝暦年中に鋳物師粉川市正が制作し多川民部が修理。
 説明板の内容は、台東区文化財のページ「銅像観音菩薩座像(榧寺)」を参照していただくとして省略。
 本像は墓地の最奥にあります。

   
 

○境内

 境内には小さいながらも庭園があります。

  
 

<高灯籠>

 境内にある高灯籠です。葛飾北斎が描いた灯籠とそっくりそのまんまです!

    

   
 

<榧寺縁起碑> 台東区指定文化財(平成30年3月指定)

 ケースに入って光が反射して読めません。漢文で見えても読めないと思いますけど。
 台東区の文化財のサイトで確認しました。
 14世幽誉高玄筆、石本喜平次刻で、寛政4(1792)年の造立です。
 本縁起は、榧寺の由緒・来歴を伝えると同時に、明暦の大火・享保17年の火災から焼失を免れた奇跡を、
 木造秋葉権現騎狐像の由来とともに物語っています。
 縁起絵巻(台東区文化財)は、石川雅望が制作に携わっています。石川雅望の墓は榧寺にあります。

   
 

初代竹本綾之助之碑>

 浄瑠璃女流義太夫の初代竹本綾之助の顕彰碑です。三代目竹本綾之助による建立です。
 明治時代の国民的アイドルで、その熱狂的な追っかけは「堂摺連(どうするれん)」と呼ばれました。
 曲のクライマックスで、一斉に「ドースル、ドースル」と絶叫したことに由来します。
 江戸時代の会いに行けるアイドルがお仙、明治時代の会いに行けるアイドルが初代竹本綾之助ですね。
 碑は山門入ってすぐ左手にあります。

  
 

<竹本綾之助に係る書籍より>

 国立国会図書館デジタルライブラリーで捜した、竹本綾之助に関する書籍から一部紹介します。

「女義太夫芸評」(旭峯居士, 傘の台主人 博盛堂 明治24年10月)
 肖像画が掲載されています。

  
 

「娘義太夫」(朝倉盧山人 一二三館 明治29年8月)

  
 

「女義太夫の裏面」(葛城天華 大学館 明治35年9月)
 
 ドースル連の後向総傍聴

  
 

「竹本綾之助艶物語」(加丸入登編 三芳屋 明治45年6月)

 右「初看板の子供時代」「売出しの若衆姿」
 中「評判の稚児髷姿」「娘盛りの全盛期」
 左「引退当時の丸髷姿」「再勤当時のハイカラ姿」

  
 

奉献石燈籠(寛永寺)>

 本堂手前右手に、寛永寺の文恭院殿尊前奉献石燈籠があります。
 文恭院は徳川11代将軍家斉です。
 天保12(1841)年の日向国延岡藩第7代藩主内藤政義による奉献です。

 「奉献石燈籠両基
  武州燈叡山
  文添院殿 尊前
  天保十ニ辛丑年閏正月晦日
   日向延岡城主
   従五位下能登守藤原姓
    内藤氏政義」

    
 

<飴なめ地蔵尊>

 享保2(1742)年の造立です。

 榧寺のパンフレットによると
「永井荷風は著書「日和下駄」に「御厩河岸の榧寺には虫歯に効験のある飴なめ地蔵」と紹介していますが、本来は百日咳の平癒を願いお供えした飴を舐めると咳が癒えたと伝えられています。」

    
 

<お初地蔵尊>

 榧寺のパンフレットによると、
「1922年(大正11)榧寺檀徒の娘お初(10歳)が養子先の虐待を受け、隅田川で死体で見つかった事件。当時7歳の座長玉川スミさん率いる「お初地蔵劇団」が「継子いじめバラバラ殺人事件」の芝居に仕組み大衆の涙を誘い大流行。境内には21代住職が供養したお初地蔵と、お初を演じた玉川スミさん建立の新しいお初地蔵と他、全3体があります。」

 残りの2体は、後ろの5体のうちのどれかと思うも、
 寛文12(1672)年の観音菩薩、元禄6(1693)年の地蔵菩薩などの石仏でした。
 

   

 残りの2体は、隣の恵比寿像のところにありました。

    
 

厄除け地蔵尊>

 高村光雲の作です。

     
 

<本堂>

 本堂の正面扉に葵紋がしるされています。

    


○榧寺墓地

 墓地入口手前に手押し井戸があります。

     
 

<石川雅望墓> 東京都史跡

 墓地左手奥にあります。
 墓石には「先祖墓」と刻まれています。
 説明板は門前にあります。

    

    
 

<銅造観音菩薩坐像> 台東区有形文化財

 墓地の奥にあります。
 宝暦年中に鋳物師粉川市正が制作し多川民部が修理
 説明板は門前にあります。説明板の内容はこちらを参照されたし。

     
 

初代竹本綾之助の墓>

 墓地は、いろは順に通路があり、「への通路」に「初代竹本綾之助の墓」があります。

 墓石台石には「施主 竹本綾之助」
 右側面に初代竹本綾之助の享年六十八歳と、昭和17年1月31日没とあります。
 また、藤田家先祖代々の霊が弔られています。
 初代竹本綾之助は、4歳の時藤田かつ(実母の姉)の養女となり、本名は「藤田はつ」です。
 左側面に施主「昭和十八年三月建之」とあります。

     

     


蔵前神社 台東区蔵前3-14-11 蔵前神社公式ホームページ

 徳川第5代将軍綱吉が元禄6(1693)年8月に石清水八幡宮を勧請して石清水八幡宮が創建されました。
 蔵前八幡とも呼ばれました。
 神仏分離で別当大護院が廃され、明治11(1878)年に石清水神社に、明治19(1886)年に再び石清水八幡宮に改称。
 昭和26(1951)年3月に現在の「藏前神社」に改称されています。

   
 

「江戸名所図会 正覚寺 一に榧寺ともいえり 八幡宮」

 挿絵の右に「正覚寺」、左に「八幡宮」が描かれています。
 両寺社とも日光街道(現在の江戸通り)に面していますが、現在は日光街道とは接していません。
 手前右の隅田川に「御馬や渡し」とあります。浅草御蔵は雲に隠れ、説明だけ記載されています。

   
 

「江戸切絵図」

 「八幡宮」、「大護院」(別当)、「成田不動」と見えます。
 「成田不動」とは、成田山新勝寺の配札所「成田山旅宿」が「八幡宮」の境内にありました。
 隅田川には浅草御蔵の一番堀から順番に堀が続いています。
 浅草御蔵「御厩カシ渡シ場」の記載があります。

  
 

「江戸名所百人美女 成田山旅宿」(豊国・国久)

 八幡宮の境内にあった「成田山旅宿」が描かれています。
 蔵前神社の由緒書によると「天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。」とあります。
 成田不動は、明治11年(1878)に江東区富岡に遷座し、同14(1881)年堂宇が建立されました。これが現在の深川不動堂です。

   
 

○現在の蔵前神社

<社号標>

 社号標は日本相撲協会による奉納です。

  
 

<相撲協会などの石玉垣>

 往時の境内は広大で、勧進大相撲の開催で賑わいました。
 天保4(1833)年に、回向院が定場所となるまで、勧進大相撲三大拠点(回向院・深川八幡宮)の一つでした。
 「日本相撲協会」や横綱奉納の玉垣があります。

   
 

<元犬の像>

 石清水八幡宮は、古典落語「元犬」や「阿武松」の舞台となっており、
 「元犬」像が落語愛好家によって奉納建立されています。

(木製説明板)

 「古典落語 ゆかりの神社
  元犬
  蔵前の八幡さまの境内で満願叶って人間になった真白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動は・・・

  阿武松
  江戸時代勧進大相撲発祥の地
  蔵前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺」

   

   
 

<力持碑>

 石清水八幡宮は、力持の技芸を披露する神事が奉納されました。
 錦絵にも描かれ、奉納力持碑が建立されています。
 隅田川テラスにも同じ錦絵が展示されています。

     
 

(説明板)
「浮世絵師 歌川國安錦絵
  文政七年之春
  御藏前八幡宮二於而 奉納力持
 この錦絵は、文政七年(一八二四)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(一七九四年〜一八三年)です。
 素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
 また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保四年(一八三三年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明二年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。
 この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋〜蔵前橋の間)にも掲示されています。」

  
 

<酒樽>

 酒樽をひっくり返して拡大。
 「男山」「剣菱ロゴ」「瀧水」と酒樽が並んでいます。
 男山と剣菱は伊丹酒で、瀧水(日本橋新和泉町四方酒店)は江戸の酒です。
 剣菱のロゴは、江戸名所図会の挿絵や、錦絵に頻繁に登場しています。

    
 

<手水舎/拝殿>

 明治維新時の上地により、寺域は狭まり、参道左すぐに手水舎、拝殿。

     
 

<狛犬台座>

 狛犬台座に、國見順生氏の歌が刻まれています。
 左狛犬「美しき世界のごとし幼児がちいさき手をば水にあらへる」
 右狛犬「春の香をたもてる空気流れつつ小暗き芝のうへにあまねし」

   
 

<福徳稲荷神社>

 西鳥居の奥に「福徳稲荷神社」が鎮座しています。

   


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