称光山華徳院長延寺と号します。
慈覚大師が下野国佐野に創建したと伝えられ、霞ヶ関を経て、慶長年間(1596-1615)に浅草蔵前に移転しました。
運慶蘇生の作と伝えられる閻魔大王を祀る閻魔堂を管理し、江戸三閻魔の一つでした。
関東大震災で本尊や伽藍を焼失したため、昭和4(1929)年、すでに区画整理のために墓地を移していた現在地に移転しました。
「江戸東京四十四閻魔」の第二十八番です。
タイトルは「大倉前 閻魔堂」、挿絵には「大円寺」「長延寺」と並んでいます。
「長延寺」は奥州道に面して山門があり、参道の先に「本堂」が描かれており、ここに閻魔大王が祀られていました。
奥州道をはさんだ向かい側は「植物御用地」です。
「江戸切絵図」
「大円寺 天王社」と「華徳院」が並んでいます。
奥州道をはさんだ向かい側は「植物御用地」です。
奥州道を北に進むと鳥越橋があり、江戸幕府の天文台(こちらで記載)がありました。
「浅草年中行事 閻魔参」(台東区立図書館蔵)
「閻魔堂」(現:華徳院)の閻魔大王が描かれています。
閻魔堂は、「浅草閻魔堂」「蔵前閻魔堂」「浅草蔵前閻魔堂」とも呼ばれました。
他所の出開帳も多く行われました。
〇閻魔堂跡 台東区浅草橋2-28-14 玩具会館北側植え込み内
「閻魔堂跡」碑は、人形問屋「吉徳」の第10第当主山田徳兵衛氏により昭和44(1969)年に建立されました。
閻魔堂には、運慶作といわれる閻魔王像と、その右には、同木で作られた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祭られていました。
(正面)「閻魔堂跡」
(裏面)「昭和四十四年初秋
山田徳兵衛建之」
「天台宗華徳院」
(説明板)
「華徳院
当寺院は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔大王です。「寺社書上」等によれば、下野国佐野(現・栃木県佐野市)の地に、天台座主第三世慈覚大師円仁によって開創されたと伝わり、理正院長延寺と称しました。
その後、武蔵国霞ヶ関(現・千代田区)を経て、慶長年間(一五九六年〜一六一五)には浅草蔵前天王町(現・台東区浅草橋)に移り、閻魔堂を管理するようになりました。現在地に当寺院が存するのは、大正二(一九一三)年より、東京市の区画整理によって、墓地を杉並区松ノ木に移転していたこともあり、昭和四(一九二九)年に、牛込千手院行元寺(新宿区)の閻魔大王を本尊として迎え、この地に本堂を建立したためです。
寛保三年(一七四三年)、同寺院は大寺格となり、延享年間(一七四四〜一七四八)、大檀那の越後国安田藩主堀丹後守直時〔寛永二十(一六四三)年没〕の法名に因み、寺院名を華徳院に改めたと伝わります。
江戸時代は「蔵前の閻魔堂」と呼ばれ、運慶作といわれた閻魔大王像のほか、姥堂には本尊と同木の運慶作といわれた奪衣婆像、聖徳太子作と伝わる化馬地蔵尊が祀られ、善養寺閻魔堂(豊島区)、太宗寺閻魔堂(新宿区)と並び「江戸三閻魔」の一つにも数えられ、正月と七月の十六日の大賽日には参詣人で大いに賑わったといわれています。
大正十二年(一九二三)の関東大震災により、これらの仏像も本堂とともに焼失してしまいましたが、その後、蔵前の閻魔堂は再建され、日光輪王寺より閻魔大王をお迎えしました。昭和二十(一九四五)年の戦火により閻魔堂は再び焼失しましたが、閻魔大王像は焼失をまぬがれ、現在、華徳院に安置されています。
令和三年十一月 杉並区教育委員会」
<庫裡/本堂>
庫裡の掲示には「本堂は開いていますので、ご自由にご参拝ください。」とあり、
お堂に上がって、ご本尊の閻魔大王にお参りすることができます。
<本尊の閻魔大王>
扁額は慈光遍照。閻魔大王は「江戸三閻魔」の一として有名でした。
運慶が死んで閻魔大王に「生き返らせてやるから自分の像を作れ」との示現を蒙り、蘇生して作った閻魔像のため「運慶蘇生閻魔」と呼ばれていました。
大正12(1923)年の関東大震災で本堂とともに焼失しました。
昭和2(1929)年に高円寺に本堂を再建して移転、牛込行元寺の閻魔大王を迎えて本尊としています。
<閻魔大王>
こちらは輪王寺から迎えた閻魔大王です。
蔵前の旧地に日光輪王寺から迎えた閻魔王像を祀り、境外仏堂としていましたが、昭和20(1945)年に戦災のため焼失。
無事だった閻魔大王像は当寺に遷されました。
嘘吐きの舌を抜く「ヤットコ」が置かれています。
閻魔大王の左手には「地獄変相図」が掲げられています。
「ヤットコ」で嘘吐きの舌を抜かれている場面も描かれています。
<句碑>
江戸時代の句碑です。詳細を知りたいところです。
<無縁塔>
一般的には中央に三界萬霊塔がありますが、こちらは中央に宝篋印塔があります。
青梅街道から分岐して五日市街道に進むと、大法寺があります。
その先に華徳院があります。
山門前に「題目寺号標」があります。
(説明板)
「松栄山大法寺は、日蓮宗の寺院で、本尊は「大願主当寺開山利生院日善」銘のある慶安2(1649)年の木造日蓮上人坐像です。
開山は利生院日善、開基は旗本浅香伝右衛門直良といわれています。
当寺は、寛永8(1631)年、現在の新宿区牛込榎町に創建されましたが、寛文3(1663)年と江戸時代末期(年代不詳)と2度の火災に遭いました。
当寺は、寛文3年の火災後、元禄5(1692)年に2世日堯が、檀家の旗本、浅香安右衛門直武および、その子で幕府植木奉行や畳奉行等を勤めた伝左衛門直良が行った土地の寄進により再興したといわれています。
明治42(1909)年に現在地へ移転、現本堂は昭和53(1978)年に新築されたものです。
令和6年3月 杉並区教育委員会」
青梅街道と環七通りが交差する「高円寺陸橋」下に「庚申堂」があり、庚申塔二基と阿弥陀塔二基が祀られています。
(説明板)
「民間信仰石塔
ここに建立されている石塔は、正徳三年(一七一三)銘、元禄七年(一六九四)銘の庚申塔、寛文十年(一六七〇)銘、享保六年(一七二一)銘の阿弥陀塔と享保十三年(一七二八)銘の供養塔計五基があります。
庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間に広まり、江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿と日月二鶏を配する塔が一般的に造られるようになりました。
阿弥陀如来は四方極楽世界の本尊とされ、他力往生の誓願をたて、この仏を信じるものは、ただ念仏さえ唱えれば難行苦行を積むまでもなく、仏が大慈の光明を照らし、お迎えくだされるとされています。
これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡高円寺村といわれた頃、地域の人々によって、悪病退散、村民安全などを祈願して建立したものと思われます。
昭和四十二年、崇敬者が相計り、特に交通安全を祈願して南向きだった社殿を環状7号線に向けて改修整備しました。
昭和五十七年から例祭日を十一月二十三日と決め、お札やお供物を配るようになりました。
昭和五十八年三月 杉並区教育委員会」
「元禄7(1694)年庚申塔」「正徳3(1713)年銘庚申塔」
「寛文10(1670)年銘阿弥陀塔」「享保6(1721)年銘阿弥陀塔」