東光山良雲院松平西福寺と号します。
天正2(1574)年、駿河国府中にて徳川家康の開基と伝わります。慶長13(1608)年に江戸駿河台に移転、寛永15(1638)年に現在地に移転しました。
かつては6607坪余坪あった大寺院です。浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を務めました。
開山は了伝和尚で、今川義元が織田信長の急襲で討ち取られ、家康は菩提寺の大樹寺に逃れ、時はこれまでと先祖の墓前で切腹しようとした時、
大樹寺の住持登誉上人と了伝和尚に戒められ自害を留めたと言われています。
「東京市史稿」(東京市)によると、「東照宮様御真影」「台徳院様御真影」「良雲院様御像」の三軸を所有し、4月17日の祭礼に開帳していました。
徳川家康を祀った「松平神社」(寛永12年創建)が新堀川に面してありましたが、関東大震災で罹災、鳥越神社に合祀されています。
「江戸名所図会 西福寺」
西福寺は広大な大寺院として描かれています。弁天社と弁天池があります。
本堂の裏に、新堀に面して「松平神社」があるはずですが、本堂に隠れて見えません。
右下に「蔵前通り」(奥州道)と記されています。
「江戸名所図会 新堀潟」
西福寺の裏から、東本願寺に向かっている「新堀」です。
現在は新堀通りとなっています。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「松平山西福寺」の西に「御宮」とあります。
関東大震災で罹災し鳥越神社に合祀された、徳川家康を祀った「松平神社」と思われます。
(参考)「鳥越神社」(こちらで記載)
<山門>
「松平西福寺」。
門や庫裡には葵紋が掲げられています。
<育英小学校発祥の地>
山門手前右手に、育英小学校発祥の地の説明板と碑が建てられています。
碑文を揮ごうした杉山寧は、同校卒業の日本画家です。
(碑文)
「育英小學校發祥之地
昭和六十二年仲秋 杉山寧 書」
(説明板)
「育英小学校発祥の地 台東区蔵前四丁目十六番十六号 西福寺
明治二年(一八六九)三月、明治新政府は幕府・藩による政治体制にかわる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため、小学校の設置を定め、明治三年三月、東京に六つの小学校を設立した。
その一つが、本寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の育英小学校の前身である。開校日は同年六月二十三日で、現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学したといわれる。したがって、当地は、明治五年八月の学制発布に先だつ、東京で最も早い公立小学校発祥の地である。
当校は、同七年(一八七四)四月中旬に医学館跡地(現浅草橋四丁目十七番付近)へ移転、明治十年八月、育英小学校と改称し、明治十八年十月に現在地(浅草橋二丁目二十六番八号)に移った。
平成八年三月 台東区教育委員会」
<勝川春章墓> 東京都旧跡
勝川春章は、多くの門下生を育てた浮世絵師で、葛飾北斎も弟子のひとりです
(説明板)
「東京都指定旧跡 勝川春章墓
所在地 台東区蔵前四の一六の一六 西福寺内
仮指定 大正一四年六月八日
指定 昭和三〇年三月二八日
勝川春章(一七二六〜一七九二)は江戸時代中期の浮世絵師で勝川派の祖です。姓は藤原、諱は正輝。縦画生、旭朗井、李林などとも号します。無名時代に寄寓していた人形町の地本問屋林屋七右衛門方の壺形の仕切判を画印とし、「壺屋」「壺春章」と称されます。画風は個性的描写とは異なり、写実的な役者絵などを描きます。寛政四年六七歳で没します。勝川派は、門下にも春英や春好、後に葛飾北斎となる春朗など俊英を輩出し、明和から寛政期の役者絵を独占します。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
(正面)「勝誉春章信士」
(右側面)「辞世 枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」
<近藤藤吉翁之碑>
碑文冒頭に「近藤藤吉翁之碑」と刻まれています。
上部左に「従三位高村光雲」とあり、高村光雲晩年の揮毫です。
門下生による昭和6(1931)年3月の建立です。
<上人の墓>
<地蔵尊>
<題目塔>
天保3(1832)年銘の「南無阿弥陀仏」題目塔です。
<題目塔二基と地蔵尊>
<旅立ちの法然さま>
「宗祖法然上人八百年大遠忌御忌会記念
平成二十三年二月二十日」
<本堂>
平成4(1992)年に新本堂が建立されました。
<お竹の方の墓>
徳川家康の側室お竹の方(良雲院)の墓です。
葵の紋が掲げられています。
(正面)
「良雲院殿天誉壽清大禅定尼」
<一石五輪塔> 台東区文化財
永正5(1508)年銘の「一石五輪塔」です。総高は39.0センチメートル。
天明5(1785)年銘の三界萬霊塔の一画にあります。
台東区HP「一石五輪塔」に詳細が記されています。こちら。
<彰義隊(百三十二名)の墓>
正面「南無阿弥陀仏」、台座「供養塔」とのみ刻まれています。
寺HPに「彰義隊(百三十二名)の墓」の記載があります。
寛永寺の山守をしていた高木秀吉(のち市村座座主)が、擂鉢山の戦死者132体を荼毘に付し、松平西福寺に埋葬しました。
大正6(1917)年の五十回忌法要まで秘匿されました。