Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 奥州道 須賀神社(旧牛頭天王社)/閻魔堂跡


○須賀神社 台東区浅草橋2-29-16

 閻魔堂は西巣鴨に移転しましたが、隣の牛頭天王社(祇園社)は、須賀神社と改称して現在に至っています。
 推古天皇9(601)年、疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王の祠をたてて創始したと伝えられ、江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していました。
 所在地の蔵前は、江戸時代「札差」(旗本や御家人の代理として禄米を受けることを業とし、武士への金貸しなども行い大きな経済力がありました)
 が軒を並べていたため、氏子にも札差が多くいました。
 六月の祭礼は氏子の財力を背景に大いに賑わいました。その様子は『江戸名所図会』に描かれています。
 「疫病退散」の牛頭天王は日本各地で信仰されるも、明治に入り、仏語を名とする神社は改めよとの通達を受け、
 各地の牛頭天王社は社名を改めました。
 浅草蔵前の牛頭天王社も、明治元年10月に須賀神社と改称しています。

【牛頭天王社】
「江戸名所図会 大倉前 閻魔堂 牛頭天王 十王堂」

 挿絵には「大円寺」「十王堂」「てんのう」とあります。

  

「江戸名所図会 祇園会篠団子」

 挿絵には「毎歳六月八日の暁 是を修行す 氏子の家々にて団子を製し悉く篠の枝につけて是を宝前に供す 時に諸人争いこれをとり得て家内に収め置き疫災を除くの守護とす」とあります。
 祭礼の日には氏子の家で団子を製し、笹の枝につけて宝前に供しました。
 供された団子は参拝者が持ち帰り、家内で厄災除けのお守りにしたといいます。
 このため牛頭天王社は、団子天王・笹団子天王とも呼ばれました。
 「牛頭天王御祭禮 氏子中」の旗幟が立ち、大勢の人々で賑わっています。
 笹を持ち歩いている人々と、笹から落ちた団子に群がる群衆が見えます。
 江戸の笹団子は、牛頭天王に奉納する笹の枝に差した団子のことでした。

  

「絵本江戸土産 牛頭天王」(広重)

 挿絵には「牛頭天王は江都に数社あり 大伝馬町 南伝馬町 小舟町 此三社は神田明神の社内に鎮座まします 其他 浅草御蔵前 品川 千住小塚原町など いずれも六月を祭礼とす 実に天王の祭ほど気味よく勇ましきものはなし 寔に江戸の花ともいふべし」とあり、浅草御蔵前の牛頭天王も言及されています。
 なお、挿絵は南伝馬町の光景が描かれています。

  

「江戸切絵図」

 奥州道面前の門前を挟んで「華徳院」「天王社 大円寺」と並んでいます。
 天王町は、天王社が町名由来となっています。
 鳥越川に架かる「鳥越橋」は、俗に「天王橋」と呼ばれました。また鳥越刑場があったことから「地獄橋」とも呼ばれました。
 天王社の須賀神社への改称に伴い「須賀橋」に改められました。
 天王町も須賀町と改められ、現在は浅草橋二丁目となっています。

  

【須賀神社】
<社号標/鳥居>

 社号標「須賀神社」の側面は、文字が潰されて、その下にプレート「陸軍大将 荒木貞夫 謹書」が掲示されています。

     

「荒木貞夫肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 明治10(1877)年5月26日〜昭和41(1966)年11月2日
 荒木貞夫は、極東国際軍事裁判において終身禁錮刑の判決を受けた元陸軍軍人。
 社号標や忠魂碑の揮毫の他、珍しいところでは「吉田松陰終焉の地碑」(小伝馬町)の揮毫を行っています。

   

<景観重要樹木クスノキ>

 鳥居右手の保存樹木「クスノキ」は、台東区の「景観重要樹木」に指定されています。

   

<手水舎>

 人感センサーの龍の吐水口に、それを受け止める口を開けたカエル。

    

<延享元(1744)年銘の狛犬>

 延享元(1744)年に「天王町 瓦町 茅町 氏子中」による奉納の狛犬です。
 一基のみ境内南にあります。

    

<神楽殿>

  

<狛犬>

 昭和8(1933)年、瓦町の鮒佐による奉納の狛犬です。

    

 鮒佐は、須賀神社の隣に店を構える、文久2(1862)年創業のつくだ煮の老舗です(HP)。

  

<拝殿>

 社殿は昭和36(1961)年の再建です。
 川口鋳物師秋本製(昭和36(1961)年)の天水桶が置かれています。

     

<社務所/本殿>

   


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