Discover 江戸史蹟散歩
 
 紀尾井町

  ○ 町名由来「紀尾井町」
  ○ 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡
  ○ 東京ガーデンテラス紀尾井町
    ・赤坂御門の石垣と刻印
    ・赤坂御門と紀州藩麹町邸の遺構
    ・旧李王家東京邸
  ○ 諏訪坂
  ○ 標柱「清水谷」
  ○ 清水谷湧口心字池
  ○ 清水谷公園
    ・贈右大臣大久保公哀悼碑(千代田区文化財)
    ・玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)
    ・偕香苑(茶室)
  ○ 紀尾井坂
  ○ 喰違木戸跡(国史跡)
  ○ 真田濠跡
  ○ 弁慶橋
  ○ 名所江戸百景
  ○ ホテルニューオータニ日本庭園 別頁
    ・近江彦根藩井伊家屋敷跡
    ・奉献石燈籠
  ○ 赤坂御門/几号水準点 別頁
 
 元赤坂

  ○ 紀伊国坂
  ○ 旧赤坂仮皇居正門


○町名由来「紀尾井町」 千代田区紀尾井町2-1 清水谷公園

 「千代田区町名由来板 紀尾井町」が清水谷公園に設置されています。

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 紀尾井町 紀尾井町町会
 江戸時代の初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていました。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷がありました。
 紀尾井町の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。また、紀尾井坂より南、弁慶橋あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷」と呼ばれていました。
 これらの大名屋敷は、明治五年(1872)、新たに麹町紀尾井町に生まれ変わり、明治十一年(1878)、麹町区に所属します。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮邸(のちの李王邸、現・赤坂プリンスクラシックハウス〔旧・赤坂プリンスホテル〕)や伏見宮邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。
 明治七年(1874)、赤坂喰違付近で岩倉具視が襲われ、同十一年(1878)には清水谷前の道で、時の内務卿大久保利通が暗殺されました。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。
 明治四十四年(1911)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和九年(1934)、区画整理により北側の一部が麹町五丁目、麹町六丁目に編入されました。
 江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町、外国使臣を迎える迎賓館などに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供しています。」

   

   


○紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡 千代田区紀尾井町4-26

 東京ガーデンテラス紀尾井町及び清水谷公園の一帯は、明暦3(1657)年の振袖火事の後に拝領、文政6(1823)年に焼失するまで、
 紀州藩徳川家上屋敷があった麹町邸の跡地です。
 東京ガーデンテラス紀尾井町の敷地の一角、弁慶橋の北詰付近に 「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の標柱と説明板が建てられています。

(標柱)
 「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡
  千代田区観光協会 平成十年八月」

    

(説明板)
「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡
 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。
 紀伊徳川家は、徳川家康の十男便頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。
 明治5年(1872)、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。 千代田区観光協会」

  

「江戸切絵図 外桜田永田町絵図」

 江戸切絵図から、「紀尾井町」の語源となった、紀伊殿・尾張殿・井伊掃部頭の屋敷部分の抜粋です。
 江戸時代は弁慶橋は架かっていません。すでに紀尾井坂の文字が見えます。

    

東京ガーデンテラス紀尾井町 千代田区紀尾井町1-2

 西武ホールディングスは、高輪、品川エリアなどの再開発の投資に回すため
 「東京ガーデンテラス紀尾井町」は2024年度中に売却する予定です。

  

<花の広場>
 
 「Echoes Infinity~Immortal Flowers~(大巻伸嗣)」が置かれています。

    

<テラスの小道>

 花の広場と空の広場を結ぶ弁慶濠沿いの小道です。

   

 脇にウッドデッキの散策路が設けられています。
 弁慶橋が一望できます。

    

赤坂御門の石垣と刻印

 ウッドデッキの東端に、赤坂御門の石垣の見学用デッキが設けられ、説明板が設置されています。
 石垣石には多くの刻印があり、矢穴も視認できます。

    

(説明板)
「国史跡江戸城外堀跡 赤坂御門の石垣と刻印
 正面の石垣は、江戸城外郭の赤坂門跡で、寛永13年(1636)に福岡藩主黒田忠之によって築かれたものです。「江戸名所図会」によれば、江戸城の城門の中でも優れた縄張りであるとされ、 弁慶濠と赤坂溜池の谷に狭まれた急峻な斜面地に設けられた城門でした。
 門の構造は、高麗門と右折の位置にある渡櫓門からなる枡形門で、前面には土橋が設けられていました。その規模は、内法寸法20間2尺3寸、渡櫓台石垣高さ6間半(約12.8m)でしたが、明治30年(1897)に道路拡幅によって石垣の大部分が撤去されました。
 現存する弁慶濠に面する石垣は、約15mの高石垣が残っており、その中には 黒田家家紋の「裏銭紋」の刻印が数多くみられます。」

   

空の広場>

 赤坂御門石垣の上に「空の広場」があります。
 赤坂御門と紀州藩麹町邸の遺構があります。

     

 紀州藩麹町邸の遺構

   

(説明板)
「国史跡江戸城外堀跡 赤坂御門と紀州藩麹町邸の遺構
 ここに表示した石積は、赤坂門の石垣復元と紀州藩徳川家麹町邸の石組遺構を移築したものです。江戸時代の赤坂御門周辺には、徳川御三家のひとつ紀州藩徳川家の赤坂邸(現在の迎賓館、赤坂御所)と麹町邸、譜代大名の彦根藩井伊家の屋敷があり、江戸城下の西の防衛としていました。
 このうち当地は、赤坂門とその北側に広がる紀州藩麹町邸に該当し、遺跡の発掘調査によって、赤坂門や紀州藩邸にかかわる多くの遺構が発見されました。赤坂門石垣は、広場西側と南側に配置した石積みベンチ下に保存され、広場東側に積んだ石積みは紀州藩邸をめぐる下水溝の一部を再現したものです。」

     

 「空玉/紀尾井町(青木野枝)」

   

<水の広場>

  

 「the wind of self(坪田昌之)」

  

 「White Deer(名和晃平)」と赤坂プリンスクラシックハウス

  

 「ヨヨ(隠崎麗奈)」

  

<芽生えの庭>

   

 「息吹く朝(いぶくあさ)(竹田康宏)」

  

<光の森>

 ビオトープがあり、石橋があります。

   

 「System No. 31(ジュリアン・ワイルド)」

  

<清水谷公園への連絡階段>

   


旧李王家東京邸 千代田区紀尾井町1-2 赤坂プリンスクラシックハウス

 赤坂プリンスクラシックハウスが建つこの場所は、江戸時代には紀州徳川家の大名屋敷、
 明治時代には明治17(1884)年に、ジョサイア・コンドルの設計による本格的洋館が竣工し、北白川宮家の皇族宮廷があった場所です。
 その後、大正13(1924)年に李王家(朝鮮王朝)に下賜され、昭和5(1930)年に改修されたのが、現存する建物です。
 昭和27(1952)年に堤康次郎が購入し、昭和30(1955)年に赤坂プリンスホテルが開業、平成28(2016)年に「赤坂プリンスクラシックハウス」となりました。

   

<旧北白川宮邸洋館・煉瓦基礎遺構>

   

(説明板)
「旧北白川宮邸洋館・煉瓦基礎遺構
北白川宮邸洋館
設計:ジョサイア・コンドル
竣工:1884(明治17)年12月

2011(平成23)年、旧李王家東京邸(現赤坂プリンスクラシックハウス)の保存工事の過程で地中より旧北白川宮邸洋館の煉瓦積基礎が発見された。
 この地は、紀伊徳川家江戸上屋敷跡で、明治時代になって北白川宮能久親王に下賜され、1884(明治17)年に洋館を中心とする大規模な殿邸が建設された。洋館は煉瓦造2階建(一部3階)の壮麗なゴシック建築で、設計者はジョサイア・コンドルであった。その後、北白川宮邸洋館は 1894(明治27)年の東京地震によって被害を受け、翌年には能久親王が逝去したことから、3階と西側が撤去縮小され、玄関ポーチも北寄りに移された(写真はこの時のものである)。1912(明治45)年、北白川宮家は高輪南町の新邸に移転し、跡地には1930(昭和5)年に李王家東京邸が建設された。
 発見された煉瓦積基礎には上質の煉瓦が用いられており、目地にセメントを用いた丁寧かつ堅牢な造りであった。この遺構はその一部で、玄関ポーチの独立柱の基礎であったと考えられる。

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)
[1852(嘉永5)年〜1920(大正9)年]
 1877(明治10)年に工部大学校造家学教師および工部省営繕局顧問として来日し、終生を日本で過ごしたイギリス人建築家。日本人建築家の養成と西洋建築の導入に大きな功績を残した。主な作品に鹿鳴館(現存せず)、エコライ堂(現存)、三菱一号館(復元)、岩崎久彌邸(現存)など。

解説監修:築史家 河東義之
煉瓦保存処理監修 株式会社 高山煉瓦建築デザイン 高山登志彦」

    


諏訪坂 千代田区紀尾井町1先 東京ガーデンテラス紀尾井町東側歩道

 東京ガーデンテラス紀尾井町の東にあり、都道府県会館西横で富士見坂に交わる諏訪坂です。プリンス通りの一部です。

(標柱)
「諏訪坂
 江戸時代、坂下の角地(現在の都道府県会館)に六千石取りの旗本・諏訪家の屋敷があったことから名付けられました。
 また、坂を挟んだ反対側には紀伊徳川家の上屋敷が建っていましたが、その表門の柱に達磨に似た木目があったことから、達磨坂とも呼ばれていました。
 明治時代になると、紀伊徳川家上屋敷の跡地に北白川宮邸が建設されました。 千代田区」

     


○標柱「清水谷」 千代田区紀尾井町3先

 紀尾井町通りに、標柱「清水谷」が設置されています。

(標柱)
「江戸時代、この地にあった尾張徳川家の表門から南北に下る道筋を清水谷といいます。
 清水谷から喰違見附へと登る坂道が紀尾井坂です。 千代田区」

     


清水谷湧口 千代田区紀尾井町2-1 清水谷公園

 紀尾井町通りに面して、清水谷公園内に、標柱「清水谷」と清水谷湧口、説明板「清水谷」があります。

     

(説明板)
「清水谷
 江戸時代、この地域には紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があり、その頭文字から紀尾井町と呼ばれています。清水谷の名は、井伊家と紀州徳川家の屋敷境の谷筋から清水が湧き出ていたことに由来します。
 1878年(明治11年)、清水谷付近で大久保利通が暗殺され、この地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(千代田区指定文化財)が建てられました。
 清水谷公園は東京市によって整備され1890年(明治23年)に開園しました。1965年(昭和40年)に千代田区に移管されています。
 公園内には、大久保公哀悼碑の他に、江戸の水道施設である玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)が展示されています。 千代田区」

    

 説明板に掲示の「東京一目新図」を見ると、清水谷湧口の近くに「櫻田ビール会社」があります。
 明治13年から移転する明治30年まで、清水谷に醸造所を設けていました。

  

心字池

 清水谷の清水を人工的に復元したのが清水谷公園の「心字池」です。

     

    


清水谷公園 千代田区紀尾井町2-1

<清水谷公園の沿革>

(説明板)
「清水谷公園
 清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。
 清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年5月、都市計画決定し、明治23年3月に開園しました。
 開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。
 園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。
 自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。」

   

「清水谷公園」(東京市役所 昭和11年 都立図書館蔵)
 東京市役所が発行した清水谷公園の概要のパンフレットです。

    

<園内>

 公園内のメインの哀悼碑への通路、「ロータリークラブ記念植樹碑」があり木々が多いです。井戸跡がありました。

    

<躑躅(つつじ)山>

 哀悼碑の後ろは、後丘となっています。
 「東京市公園概観」(東京市役所 大正12年)では「躑躅(つつじ)山」と記載されています。
 当時は、つつじが多く植えられ、開花の時期は、大変賑わったようです。

    

○贈右大臣大久保公哀悼碑 千代田区文化財

 明治11(1878)年に暗殺された大久保利通をしのんで明治21(1888)年5月に建立(千代田区説明板)された哀悼碑です。
 碑陰には明治17(1884)年10月とあります。また「清水谷公園」(東京市役所 昭和11年)のパンフにも明治17(1884)年10月とあります。
 碑表の碑文は太政大臣三条実美の揮毫です。碑表の左右には登り龍と下り龍が線刻されています。
 灯火を持ち馬車を先導した従者が紀尾井坂を上っている最中にまず襲われ、次いで清水谷にいた馬車の馬と御者が殺され、そして大久保利通が暗殺されました。
 このため、大久保利通が暗殺された場所は清水谷ですが、紀尾井坂の変と言われてきましたが、研究者には紀尾井町事件として定着しているようです。

     

     

(説明板)
「贈右大臣大久保公哀悼碑
 千代田指定文化財 1992年(平成4)年4月1日指定
 1878年(明治11年)に暗殺された大久保利通をしのんで1888年(明治21年)5月に建立された碑です。
 大久保利通(1830-1878)は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任しました。
 西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、1878年5月14日朝、麹町清水谷において赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中の馬車を襲い暗殺しました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。
 湧水があったことから清水谷と呼ばれるこの周辺は、1890年(明治23年)に東京市によって整備され清水谷公園となりました。 千代田区」

    

(説明板)
「「贈右大臣大久保公哀悼碑」
 明治一一年(一八七八)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通 が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二十一年(一八八八)五月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると六・二七メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は、硬砂岩と思われます。「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一段面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。

 大久保利通公記念碑の裏面碑文の内容説明
 ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。
 大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。」

  

「大久保利通之一生」(明治33年 国立国会図書館蔵)
 碑陰が紹介されています。

  

(参考)「大久保利通墓」(こちらで記載
 ※ 大久保公の墓に寄りそうように、犠牲となった馬と御者の中村太郎の墓もあります。
   また、事件の際に大久保公が身に着けていた衣服が「標」に納められています。

    


玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土) 千代田区紀尾井町2-1 清水谷公園

 四谷大木戸から暗渠で引かれた玉川上水の本管の一部が展示されています。
 四角に空いた穴は、石枡に木樋をつないで通水するための挿入口です。
 石枡とともに出土した木樋が、千代田区立日比谷図書文化館展示室にあります(撮影禁止でした)。

   

(説明板)
「玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)
千代田区指定文化財
2018年(平成30年)4月1日指定
 この石枡は1970年(昭和45年)に国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町三丁目2番地先で発見された玉川上水施設の一部です。
 玉川上水は、4代将軍徳川家綱の命で1653年(承応2年)に着工し、翌年に竣工したと伝えられています。取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43キロメートルを開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していました。
 この石枡は江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていました。1段目と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口があります。石枡とともに出土した木樋は千代田区立日比谷図書文化館で展示されています。 千代田区」

    


偕香苑(茶室)と顕彰碑 千代田区紀尾井町2-1 清水谷公園

 偕香苑は公園内にある茶室です。
 「新撰東京名所図会」(明治29〜44年)によれば、皆香園は明治23年8月の公園開設時に設けられ、
 植木師が常駐し公園内を管理するかたわら、茶亭貸席を営んでいました。
 「池畔に皆香園と称する彙駝師(うえきし)あり常に園内を管理し傍ら茶亭貸席を営む、琴棋書画の会あり」
 「東京市公園概観」(東京市役所 大正12年)にも、貸席を兼ねた茶屋「偕香園」の記載があり、
 句会など、様々な会合の場として使われたようです。

   

<顕彰碑>

(碑文)
「顕彰碑
 清水谷公園は、北白川宮家の邸があった場所で、明治二十三年に東京市へ下腸され、同年東京市立清水谷公園となった。
 昭和三十一年都立公園となり、昭和四十年、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。
 移管後、公園内に先代秋元馨氏が現建物である「偕香苑」を昭和五十九年に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。
 平成十八年三月に御子息である、秋元裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された。
 千代田区として、秋元氏の意志を尊重し、「偕香苑」を茶道や生け花を始めとした各種の催し物に利用するなど、区民等の方々に愛される施設として活用するものである。
 秋元氏への寄贈に対する御礼と、これまでのご功績とご貢献に対し、衷心より感謝を申し上げ、ここに顕彰するものである。
  平成十八年五月 千代田区」

  


紀尾井坂 千代田区紀尾井町4先 ホテルニューオータニ北側歩道

 紀尾井坂に建てられている標柱「紀尾井坂」です。

(標柱)
「紀尾井坂
 坂上の喰違(江戸城防衛のために設けられた屈曲した道筋と土手)と、清水谷を結ぶ坂道です。江戸時代、この坂の両側に、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことから、一文字ずつ取って名付けられました。また、坂下に清水谷があるため清水谷坂とも呼ばれていました。
 一八七四年(明治七年)に発生した岩倉具視襲撃事件(喰違の変)の現場としても知られています。 千代田区」

    

○歴史と文化の散歩道「外堀散歩」 千代田区紀尾井町4-3

 紀尾井坂の下り終端の交差点に、「歴史と文化の散歩道 外堀散歩」が設置されています。

   

(説明板)
「外堀散歩
 外堀散歩は、四ツ谷駅から赤坂一ツ木までの約1.8Kmのみちのりです。江戸城外郭の要所となった四谷・赤坂の両見附跡をはじめ、かつて江戸の城下を巡っていた外堀沿いを歩く散歩道です。

 外堀・見附・紀尾井坂
 このあたりの外堀は、寛永13年(1636年)、江戸城の外郭を守る堀としてつくられたもので、 掘削した土砂を内側にかき上げることにより土塁の築造も行われた。外堀沿には、赤坂門のあった赤坂見附門と石垣を使わなかった喰違見附、四谷門のあった四谷見附など、江戸城外への出口である見附が施された。
 赤坂見附と四谷見附の間には、かつて紀伊家・尾張家・井伊家の屋敷が集まっており、紀尾井坂の地名は、この各屋敷の頭文字に由来している。」

   

○ガス燈 千代田区紀尾井町4-1

 ホテルニューオータニのメインアプローチを飾る9灯のガス燈です。
 ホテルニューオータニの開業25周年を記念して、平成元(1989)年に東京ガスが寄贈しました。

    

 「開業25周年記念 ガス燈
  平成元年9月1日 寄贈 東京ガス株式会社」

    


喰違木戸跡(国史跡) 千代田区紀尾井町5-2

 慶長17(1612)年につくられた、江戸城外郭門で唯一、石垣ではなく土塁による虎口(城の出入口)です。
 現在も道筋はジグザクとなっています。

     

(説明板)
「喰違木戸跡
 喰違木戸は、1612年(慶長17年)に旧武田家臣の小幡景憲によって縄張りされたと伝えられます。門からつながる土橋は、現在の紀尾井町と港区の元赤坂を結んでいます。
 通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形ですが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となり、門ではなく木戸が設けられていました。この地は、二つの谷に挟まれた高台で、江戸城西側の防御の要として構築されたと考えられます。現在は、一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。
 1636年(寛永13年)には、江戸城内郭と城下とを取り巻くように外堀工事が行われ、その全長は14kmに及んでいます。このうち約4kmの範囲が、1956年(昭和31年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。」

    

「絵本江戸土産 喰違外」(広重 国立国会図書館蔵)

 挿絵には、「喰違外 赤坂にありその容およそづのごとくにして封疆の古松幾千株を知らす千仞の御隍直下せば眩暈がごとく他にまた比すへき所なきの地なり」とあります。

  

<歴史と文化の散歩道「外堀散歩」> 千代田区紀尾井町5

  

喰違の変

 明治7(1874)年1月14日、公務を終え、赤坂の仮皇居から自宅へ帰る岩倉具視の馬車が、喰違で襲撃されました。
 岩倉は濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取りとめました。

「岩倉具視肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 文政8年9月15日〜明治16年7月20日(1825年10月26日〜1883年7月20日)

    

(参考)
 「山岡鉄舟と岩倉具視
 「岩倉具視墓所

真田濠跡 千代田区紀尾井町5

 真田濠は、戦後埋立てられ、上智大学の「真田堀運動場」として使用されています。

  

「真田濠の埋め立て」(江戸城外堀史跡展示広場掲示)

(説明板)
「真田濠の埋め立て
 四ツ谷駅の南側に広がっていた真田濠は、1950(昭和25)年に戦災のがれきを処理するために埋め立てられ、 上智大学のグランドとなりました(下図)。現在も土塁部分はほとんど江戸時代のまま残されており、堀の埋め立て面は埋め立てる前の水面の高さと同じであるため、堀の広さを感じることができます。」

  


弁慶橋 千代田区紀尾井町〜港区元赤坂一丁目

 弁慶濠に架かるのが「弁慶橋」です。
 弁慶橋は、かつて藍染川に架かっていた「江戸名所図会」に載る名橋でしたが、明治18(1885)年に藍染川が埋立てられ、
 弁慶橋の廃材が転用され江戸城外堀に、明治22(1889)年新たに弁慶橋が架橋されました。
 昭和2(1927)年に架け替えられ、昭和60(1985)年にコンクリート橋に改架されました。

     

 「弁慶豪」に面した鬱蒼とした森がホテルニューオータニ日本庭園です(こちらで記載)。

   

(説明板)
「弁慶橋
 この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた藍染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋にあった擬宝珠は、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所となっていました。
 1927年(昭和2年)に架け替えられ、現在の橋は1985年(昭和60年)に改架したコンクリート橋です。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。」

    

「赤坂弁慶橋」(東京名所写真帖 明治43年)

 当初の木橋です。

   

「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年 国立国会図書館蔵)

 「昔ながら木橋に凝寶珠輝く赤阪の辨慶橋」とあります。
 昭和2(1927)年に架け替えられた木橋です。

   

「赤坂弁慶橋」(絵はがき 主婦之友社 昭和7(1932)年 都立図書館蔵)

 主婦之友の附録の絵はがきになるほど、名所だったことがうかがえます。

  

(参考)「藍染橋と弁慶橋


名所江戸百景

「赤坂桐畑雨中夕けい」(二代広重)

 落款に「二世広重画」とあり、現在の赤坂見附交差点を描いています。
 溜池の北端が描かれ、赤坂御門に向かう道の先に僅かに赤坂御門の屋根が見えます。
 雨にかすんでいる森には、紀尾井町の語源となった紀伊家、尾張家、井伊家の屋敷がありました。

  

「赤坂桐畑」(広重)

 赤坂御門から東方向が描かれています。

  


紀伊国坂 港区元赤坂2-1

 紀伊国坂(きのくにざか)は、坂の西側に紀州家の中屋敷があったことからその名がつけられました。

 紀伊国坂の坂下と坂上
   

 坂下に港区の標柱「紀伊国坂」が設置されています。

(標柱)
「紀伊国坂 きのくにざか
 坂の西側に江戸時代を通じて、紀伊(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。
  平成三十年三月 港区」

     

 「区の木 ハナミズキ」
  柵の欄干に掲げらている「区の木 ハナミズキ」です。
  ハナミズキは東京市からワシントン市に贈った桜のお返しとして、大正4年に渡来し、 国際交流の橋わたしをした木です。

  

「名所江戸百景 紀の国坂赤坂溜池遠景」(広重)

 紀州徳川家の行列が、紀伊国坂を上って屋敷へ戻るところが描かれています。

  

「絵本江戸土産 紀國坂」(広重)

 挿絵には「紀国坂 赤坂御門外 紀州侯の御第の前よりこの所高見にして遠近見わたし風景いわん方なし させる勝地にあらすといへとも何となく風雅のさまあり」とあります。

  


旧赤坂仮皇居正門(迎賓館東門) 港区元赤坂2-1-2

 紀伊国坂坂上の明治期の仮皇居正門です。現在は迎賓館赤坂離宮の東門です。
 この門は、東宮御所を創建するにあたり、明治末期に紀州藩徳川家中屋敷の通用門を移築改修したものだそうです。
 門から出てすぐの「食違見附跡」で岩倉具視が襲撃され暗殺されそうになったのが「食違の変」です(明治7(1874)年1月14日)。
 門へ向かう途中の「清水谷」で大久保利通が暗殺されたのが「紀尾井町事件」です(明治11(1878)年5月14日)。

     

「赤坂仮皇居及太政官真景」(井上安治 明治18年)

 明治6(1873)年、皇城(旧江戸城)が失火により焼失したため、天皇の一時的な居所として、
 赤坂離宮(旧紀州徳川家の中屋敷)を活用・整備し、明治22(1889)年1月まで「赤坂仮皇居」として使用されました。
 井上安治が赤坂仮皇居と太政官庁舎を描いています。右は正門部分の抜粋です。

   

「新宮城江御移転ノ図」(楊洲周延 明治22年 都立図書館蔵)

 明治22(1889)年1月11日、明治天皇と皇后は赤坂仮皇居から宮城の宮殿へ移りました。

  


戻る