建長3(1251)年北条時頼の開基によります。
本尊は、建長3(1251)年、門前の海で捕獲された大鮫の腹から見つかった観音像です。
紅葉の名所として有名でした。
「江戸名所図会 海晏寺」
東海道に面して「総門」があり、「中門」を抜けると、すぐ左に「時頼墓」、右に「いなり」があります。
境内左手に「弁天」が見えます。参道を進むと「本堂」があります。
本堂裏の庭園の左に「二階堂 梶原 北条 三士墓」があります。
庭園の右奥に「東照大権現」「いなり」「浅間」が見えます。
「名所江戸百景 南品川鮫洲海岸」(広重)
漁師の網に掛かった鮫の腹から、木造の観音像が出てきて、これをご本尊に北条時頼が建立したのが海晏寺で、
由来の一つに、門前に広がる海岸は鮫洲と呼ばれるようになったと伝わっています。
延々と連なる海苔養殖場が描かれています。
海苔の養殖の「ひび」、海苔採用の「ベカ船」が見えます。
<江戸の紅葉見>
江戸の紅葉見は、下谷の正燈寺(こちらで記載)と品川鮫洲の海晏寺が特に有名でした。
足を延ばして真間の「弘法寺」(こちらで記載)も有名でした。
正燈寺と海晏寺が特に人気を集めたのは、正燈寺の近くには吉原遊郭があり、海晏寺には品川宿に飯盛女がいたことです。
川柳
「紅葉狩り例年行けどもいまだ見ず」
「紅葉狩りどっちに出ても魔所ばかり」
「紅葉狩聟やるまいぞやるまいぞ」
「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」
「紅葉よりめしにしようと海晏寺」(めしとは「飯盛女」)
「堅い奴うどんで紅葉見て帰り」(弘法寺の近くに遊郭はなく行徳「笹屋うどん」があった)
「江戸名所図会 海晏寺 紅葉見之図」
海晏寺本堂裏の高台での紅葉見の光景を描いています。
縁台に3人の男性が見え、右端の俳諧風の人は、短冊と筆を手に句を熟考しています。
花見では見られない光景で、花見の賑やかさに対し、風流な賑やかさです。
紅葉見は、俳句や連歌の宗匠、医師、僧侶などの文人の遊びであったとも言われています。
「絵本江戸土産 品川 海晏寺の紅楓」(広重)
挿絵には「曹洞派の寺院にて 境内の物ふりたるに 名高き楓の染るころは 二月の花にも倍たりとして 詩歌の騒人往かざるはなし」とあります。
「江戸名所 品川海晏寺紅葉見」(広重 都立図書館蔵)
海晏寺本堂裏の高台から鮫洲海岸を描いています。
「江戸自慢三十六興 海案寺紅葉」(二代広重、豊国)
海晏寺本堂裏の高台から鮫洲海岸を描いています。
女性は短冊と筆を持っています。
「三十六花撰 東京海案寺楓」(二代広重)
海晏寺本堂裏の高台から鮫洲海岸を描いています。
<鐘楼/本堂>
扁額には「海晏禅寺」とあります。
<牢光堂>
<鐘楼裏手の石塔群>
鐘楼裏手に石塔群。なぜか砲弾が四基あります。
<五輪塔四基>
江戸名所図会にも描かれている五輪塔四基です。
四基の五輪塔のうち二基に明応4(1495)年の紀年銘があり逆修とのことです(品川歴史館の解説による)。
背の高い五輪塔が北条時頼の墓、左の二基および右の一基が三士の墓(二階堂、梶原、北条)です。
<東海三十三観音霊場創設記念碑>
五輪塔四基の前に立ちはだかるように立っている石碑です。
何かと思ったら、大正3年、紫雲会により創設された東海三十三観音霊場の創設記念碑です。
「大正三年三月創設記念 紫雲会建之」と刻まれています。
<東京都旧跡二基>
東京都旧跡に指定されている「白井鳥酔の墓」と「加舎白雄の墓」があります。
<白井鳥酔の墓>
(正面) 「松風塚遺章 松風の骨になつたる寒さかな 鳥酔居士」
(左側面)「龍齋嶺碩」
(背面) 「明和第六己丑歳次四月四日 松露菴社中 合資樹立」
両脇に石碑がありますが、標石ですかね。ひとつは松風塚の標石と後生車を兼ねています。
(説明板)
「都旧跡 白井鳥酔墓
所在 品川区南品川五丁目十六番二二号 海晏寺墓地内
指定 昭和七年二月十七日
鳥酔(〜一七六九)は上総国埴生郡地引村に生まれた。名は信興といい、喜右衛門と称していた。生家はかなりの資産家であったが家を譲って江戸に出て長谷部柳居に従って俳諧を学んだ。はじめ牧羊と号し、のち、露柱と号した。さらに松露庵二世を嗣ぎ南浦松原庵および大磯の鴫立庵に住した。
鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和六年四月四日に没した。
昭和四十三年十月一日建設 東京都教育委員会」
江戸名所図会に凸型の白井鳥酔と思われる墓が描かれています。
<加舎白雄の墓>
加舎白雄は天明の六俳客の一人で、蕉風の中興と称せられました。
(正面)「白雄居士之墓」
(右側面)没年が刻まれています。
(裏面)「たち出て芙蓉のしばむ日に逢へり」
(説明板)
「都旧跡 春秋庵白雄の墓
所在 品川区南品川五丁目十六番二二号 海晏寺墓地内
指定 昭和五年三月
春秋庵白雄は江戸時代中期の著名な俳人である。通称を加舎五郎といい、信州上田(一説には松代ともいう)に武士の子として生まれたと伝えられている。最初は松露庵烏明の門に入って俳諧を学び、のちには白井鳥酔の門人となり、春秋庵白雄と号している。この頃かれの俳風は、俳諧の祖といわれた芭蕉に近く、よく芭蕉の伝等を復興したので、蕉風の中興と称せられた。しかも独自の俳風の樹立をなして一家を立てた。かつて大磯の鴫立庵に住したこともある。寛政三年(一七九一)九月十三日、年五三で銘した。
昭和四十三年十月一日建設 東京都教育委員会」
<船玉大明神/出世辧財天/鮫頭大明神>
安政4(1857)年銘の石板碑です。
江戸名所図会に描かれている「弁天」に置かれていたものでしょうか。
<冨士山元大菩薩>
慶應2(1866)年銘です。江戸名所図会には「浅間」が描かれていたので、そこに置かれていた石碑でしょうか。
<その他>
岩倉具視墓所、松平春嶽墓所を含む墓域は公開されておらず、一般の墓域と垣根で仕切られています。
垣根から垣間見るのみです。2人の墓所は神式で鳥居が建っています。