○ ホテルニューオータニ日本庭園
<弁慶濠と弁慶橋>
「弁慶豪」に面した鬱蒼とした森がホテルニューオータニ日本庭園です。
弁慶堀に架かるのが「弁慶橋」です。
弁慶橋は、かつて藍染川に架かっていた「江戸名所図会」に載る名橋でしたが、明治18(1885)年に藍染川が埋立てられ、
弁慶橋の廃材が転用され江戸城外堀に新たに弁慶橋が架橋されました。昭和60(1985)年に改架されました。
(参考)「藍染橋と弁慶橋」
<オータニ庭園の由来>
(説明板)
「オータニ庭園の由来
四季折々の美しさを誇る四万平方米のこの庭園は、もと伏見宮邸でありましたが戦後外国人の手に渡ろうとしたのを、当ホテル創業者故大谷米太郎がこの由緒ある地を失う事を惜しみ、又、当時の行政府の要請もあり昭和二十一年、これを譲り受け荒れはてた庭を改修して名石、樹木を配し、今日のオータニ庭園としたものです。
この地は井伊掃部頭、更にさかのぼって、加藤清正公の江戸屋敷でありました。庭園に残る数々の石灯籠は、その当時の古い面影を偲ばせる貴重なものであります。又、庭園に点在する赤褐色の石は主に佐渡の赤玉石でありますが、その高雅な独特の色彩で庭石として珍重されています。これらの数多くの奇石、名石はその種類、規模に於いて他に例のないものです。
何卒、都心の中の花と緑のオータニ庭園をごゆっくりご鑑賞ください。 ホテルニューオータニ」
<近江彦根藩井伊家屋敷跡>
庭園の入口に「近江彦根藩井伊家屋敷跡」碑と説明板があります。
(説明板)
「近江彦根藩井伊家屋敷跡
この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。
明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。」
<江戸切絵図 外桜田永田町絵図>
江戸切絵図から、桜田門近くの井伊家上屋敷と、赤坂御門近くの井伊家中屋敷部分を拡大。
また、「紀尾井町」の語源となった、紀伊殿・尾張殿・井伊掃部頭の屋敷部分を拡大。
弁慶橋はまだ架かっていません。すでに紀尾井坂の文字が見えます。
<イヌマキとカヤ>
「イヌマキ」と「カヤ」の2本は、天明年間(1780年代)からこの地に生育していたものと考えられ、
千代田区の天然記念物に指定されています。
<清泉池/太鼓橋>
大きなコイが悠々と泳いでいます。
<大滝>
清泉池から流れ落ちます。
<トレーダーヴィックス創始者バージェロン石碑>
<紀尾井窯>
宿泊客を対象に陶芸教室が開かれます。
<鹿像>
石心亭の裏にいる鹿です。
奉献石燈籠が、大猷院殿(3代将軍徳川家光)1基、文恭院殿(11代将軍徳川家斉)4基ありました。
ホテル創始者の大谷米太郎が戦後、寛永寺最後の放出時に買い求めたものです。
@ 文恭院殿尊前
斜面にあり近寄れず、奉献者等詳細確認できず。
A 文恭院殿尊前
奉献石燈籠一基
武州 東叡山
文恭院殿尊前
天保十二辛丑年閏正月晦日
従五位下豊後守藤原朝臣内藤正縄
B 文恭院殿尊前
奉献者は、原姓〜。所々剥がれており、詳細には読みとれず。
C 大猷院殿 尊前
奉献石燈籠両基
武州 東叡山
大猷院殿 尊前
従五位下井伊兵部少輔
慶安五年壬辰四月
藤原直之
(直之は、井伊直好直の初名。上野安中藩主→三河西尾藩主→遠江掛川藩主)
徳川家光の奉献石燈籠ですが、保存状態良く読みとれます。
D 文恭院殿尊前
奉献石燈籠一基
武州 東叡山
文恭院殿 尊前
天保十二辛丑年閏正月晦日
従五位下保科弾正忠源正益
(保科弾正忠正益は上総飯野藩の第10代藩主)
<春日燈籠/四角大層坊塔(十三重の塔)>
春日燈籠には十二支の動物が刻まれそれぞれの方角に向いて設置されています。