延享2年1月11日〜文政元年4月13日(1745年2月11日〜1818年5月17日)
伊能忠敬は、寛政7(1795)年、50歳の時に江戸深川黒江町に隠居宅を構え、
幕府天文方の高橋至時の弟子となりました。師匠の至時は31歳でした。
寛政12(1800)年から文化13(1816)年まで、17年をかけて日本全国を測量し、
その総距離は約4万キロメートルにも及んだといいます。
伊能忠敬の第1次測量は蝦夷地への測量で、往復3,200キロメートル、180日間の行程でした。
寛政12(1800)年4月19日深川黒江町を出発、富岡八幡宮に参拝後、天文方暦局に立ち寄り、千住宿で親戚や知人の見送りを受けました。
文化11(1814)年、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町へ転居しました。
この屋敷は、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていました。
忠敬は文政元(1818)年に死去し、ここが終焉の地となりました。
忠敬の死去後も、その居宅は地図御用所として使用され、文政4(1821)年に門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。
忠敬の遺言により、師である高橋至時墓の隣に葬られました(源空寺両墓ともに国指定史跡)。
「肖像」(野村文紹 国立国会図書館蔵)
「伊能忠敬」(大谷亮吉 岩波書店 大正6年 国立国会図書館蔵)
富岡八幡宮境内、大鳥居脇に伊能忠敬翁像があります。躍動感のある像です。
富岡八幡宮は、夜はライトアップして綺麗です。
平成13(2001)年10月20日除幕、測量開始200年を記念したものです。
伊能忠敬は深川黒江町(門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発に当たっては、
富岡八幡宮に参拝していたことから縁りの地である富岡八幡宮に銅像が建てられました。
(富岡八幡宮「伊能忠敬銅像」)
【ゆかりの地 東京】
○ 伊能忠敬測地遺功表(顕彰碑)
○ 伊能忠敬翁像(富岡八幡宮)
○ 伊能忠敬住居跡(旧深川黒江町)
○ 浅草天文台(天文方高橋至時と忠敬)
○ 第一次測量送別の地(千住宿)
○ 高輪大木戸跡(測量基点)
○ 八丁堀亀島町(終焉の地)
○ 地図御用所跡(終焉の地)
○ 伊能忠敬墓(源空寺)
【ゆかりの地 その他】
○ 走り湯(測量隊宿泊宿)
○ 伊能忠敬測量史跡(別府市)