○ 高輪大木戸跡(国史跡)
東海道の高輪には、御府内と御府外を区別する木戸「高輪大木戸」が置かれていました。
伊能忠敬は全国を測量するにあたり、ここを測量の基点としました。
西側の石垣は撤去されており、現在は東側に石垣が残っています。
石垣の国道側に几号水準点があります。
<標石>
(正面) 「史蹟 高輪大木戸趾」
(右側面)「史蹟名勝天然紀念物保存法
昭和三年二月 文部大臣指定」
(左側面)「昭和七年三月建設 東京市」
<銘板>
石垣の国道側に「銘板」があります。
(銘文)
「高輪大木戸趾
寛永七年此處に木戸を設けて出入を警備せし遺趾である。江戸時代には市中一町毎に木戸を設け自身番をして之を開閉せしめた 此の木戸は東海道よりする江戸の入口なれば規模大にして此處にて往来の客は旅装を改め送迎者も亦此處を限りとした。
享和年間伊能忠敬が全國を測量するに當り此處を其の基點とした事は著名である。木戸は維新後撤廃せられ道路の両側に残存せし石壘も東側のもののみとなり更に道路擴張の爲に之をも撤去せられんとせしを幸に大正大震災後史蹟として指定せられ茲に永久に保存されるに至った。
昭和七年四月 東京市」
(説明板)
「史跡
高輪大木戸跡
所在地 港高輪二丁目十九番
指定 昭和三年二月七日
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(一七一○)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(一七二四)に現在地に移された。現在地の築造年には、宝永七年(一七一○)説・寛政四年(一七九二)など諸説がある。
江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天保二年(一八三一)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違門内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五・四メートル、長さ七・三メートル、高さ三・六メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
平成五年三月三十一日 東京都教育委員会 」
「江戸名所図会 高輪大木戸」
高札場が見えます。
「東海道名所図会 高輪茶店」
挿絵右手に高輪大木戸の石垣と、高札場が見えます。
高輪を詠んだ句ではありませんが挿絵には「春の海終日のたりのたりかな 蕪村」が添えられています。
「東都名所 高輪全図」(広重)
高輪大木戸の石垣と、高札場が見えます。石垣の間を牛車が通っています。
「東海道名所之内 高輪大木戸」(二代広重)
文久3(1863)年2月、14代将軍徳川家茂は、公武合体を推進するため、孝明天皇のもとへ上洛しました。
当時(文久3(1863)年4月の作品)は徳川将軍家は描けないので、葵の紋ではなく他の紋に差し替えて描かれています。
「東京開化三十六景 高輪大木戸」(三代広重)
二代広重と同じ構図で描いていますが、こちらは明治時代です。
海の上の高輪築堤を汽車が走っています。
「大山」の提灯の男がスイカを食べながら歩いています。
「人力」の提灯の人力車がこちらに向かっています。
<品川ゲートウェイ>
駅名の選定理由は、
「この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、
明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。」とのこと。
(新駅の駅名の決定について)