栄閑院は、通称『猿寺』と呼ばれ、寛永の頃(1624〜1643)、猿回しに扮した泥棒が寺に逃げ込み、
住職に改心させられ猿を置いて諸国行脚に旅立ち、人に慣れた猿は寺の人気者になったことに由来します。
杉田玄白の墓があります。福井県のHPでも紹介されています(こちら)。
山門、標柱「都史跡 杉田玄白墓」、表札「さる寺 榮閑院」
<杉田玄白墓> 東京都史跡
(説明板)
「杉田玄白墓
所在 港区西久保巴町九八 栄閑院内
指定 昭和四十一年三月十七日
杉田玄白(一七三三〜一八一七)は江戸中期の蘭医、蘭学の祖である。若狭小浜藩の藩医杉田甫仙の子、名は翼、字は子鳳、号は鵜斎、九幸翁など。江戸に生まれ、西玄哲に外科、西幸作にオランダ外科を学んだ。前野良沢、桂川甫周らとオランダ語解剖書を翻訳した『解体新書』は日本医学史上画期的な文献である。文化十二年(一八一五)に脱稿した『蘭学事始』は『解体新書』翻訳の苦心談を回想した点で有名である。このほか「形影夜話」「野叟独語」などの著書がある。
昭和四十三年三月一日 建設 東京都教育委員会」
「杉田玄白先生墓へおまいりの人は、ご自由にお入りください」
(正面)
「九幸杉田先生之墓」
杉田玄白の号が「九幸」で、「幸」の隷書体と、「杉」の隷書体で刻まれています。
(左側面)
「文化十四丁丑年四月十七日歿」
(右側面)
「故杉田玄白
贈正四位
明治四十年十一月十五日
宮内大臣正ニ位勲一等伯爵田中光顕奉」
○杉田玄白肖像
享保18年9月13日〜文化14年4月17日(1733年10月20日〜1817年6月1日)
小浜藩医杉田甫仙の子。名は翼、字は子鳳、号は「い齋」のちに九幸翁。
小浜藩医。前野良沢、中川淳庵らと『解体新書』を訳述し、安永3年(1774)刊行。
家塾天真楼で大槻玄沢などの弟子を育てる。
「蘭学事始」(杉田玄白著 天真楼 明治2(1869)年)
『解体新書』翻訳出版の苦心など蘭学草創期についての杉田玄白による回想録。
文化12年(1815)脱稿。
「小田野直武による解体図扉絵」(解体新書より 国立国会図書館蔵)
(参考)
「平賀源内墓」(杉田玄白による墓碑銘)
「須原屋茂兵衛」(解体新書を版行)
「長崎屋跡」(杉田玄白も訪問)
「蘭学の泉はここに」(前野良沢ら3人が奥平家中屋敷で『ターヘル・アナトミア』を翻訳)
「観臓記念碑」(小塚原で刑死者の腑分けに立会う)
「時の町奉行曲淵甲斐守殿の家士得能万兵衛といふ男より手紙もて為知越せしは、
「明日、手医師何某といへる者、千寿骨ヶ原にて腑分いたせるよしなり。
御望ならば、彼かたへ罷越れよかし」
と言文おこしたり。」(解体新書より抜粋)
<猿塚>
昭和57(1982)年銘の「猿塚」です。
<猿の場所は、>
本堂屋根の左右両端
向拝の左右の木柱上部
参道の左右の石柱
<福禄寿>
<水子地蔵尊>
<釈尊安座納骨塔>
<池>
<墓石など>
<開運出世大黒天>
<薬師如来>
<本堂>
扁額「久遠山」