○ 長崎屋跡
○ 石町時の鐘 鐘撞堂跡
○ 夜半亭(与謝蕪村居住地跡)
平賀源内や杉田玄白も通った、日本橋で開いていた世界の窓「江戸の出島」と言われた、長崎屋跡です。
JR新日本橋4番出口に、説明板「長崎屋跡」があります。
オランダ商館長と随員一行は、江戸参府を行い、5都市6軒の阿蘭陀宿(江戸長崎屋・京海老屋・大坂長崎屋・下関伊藤家または佐甲家・小倉大坂屋)に止宿しました。
江戸では本石町の薬種屋・長崎屋源右衛門方が定宿となり、物見高い江戸市民はこぞって見学に訪れました。
蘭学者・医師などは交流を求めて数多く訪問したといわれており、青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内などが訪れ、江戸の出島と言われました。
江戸っ子の見学の様子は、葛飾北斎『画本東都遊』の中で描かれています。「長崎屋自分のうちへ分けて入り」と川柳に詠まれた混雑振りです。
長崎屋宿所の正門は宿所の南にあり、裏の北側には石町の時の鐘があったことから、「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれました。
(説明板)
「中央区民文化財 長崎屋跡
所在地 中央区日本橋室町四丁目二番地付近
江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府時における定宿でした。諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは、幕府に謝意を表するために江戸へ参府し、将軍に謁見して献上品を贈りました。
江戸参府は江戸前期から毎年行われており、商館長の他、通訳、医師などが長崎からにぎやかに行列して江戸に来ました。しかし、経費の問題もあり、江戸中期からは四年に一回となっています。
随行したオランダ人の中には、ケンベルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者、医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収する場として有名になりました。
この地は、鎖国下の日本における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。
(長崎屋「画本東都遊」葛飾北斎画を掲示)
平成二十一年五月 中央区教育委員会」
「画本東都遊 日本橋長崎屋阿蘭陀人図」(葛飾北斎)
中央区の説明板に掲載されている錦絵(国立国会図書館蔵)です。
子どもは肩車をしてもらって見学です。
「狂歌江都名所図会 十軒店」(初代・二代広重)
二代広重が幕末の頃の「長崎や紅毛人旅宿」を描いています。二階建てだったことがわかります。
画中の狂歌もカピタン(英語だとキャプテン)や紅毛人を詠みこんでいます。
旅宿の門は、十軒店から小路に入ってすぐで、現在説明板が建っている場所ですね。
長崎屋の薬種屋は現在の日本橋室町4丁目2番地ということでしょうかね。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「時ノ鐘」の記載があります。
時の鐘の南側に長崎屋があったこととなります。
<時の鐘通り>
中央通りから東へ「時の鐘通り」が続いています。
左手に時の鐘、右手には長崎屋がありました。
<石町時の鐘 鐘撞堂跡>
「時の鐘通り」に入ってすぐ左に、説明板「石町時の鐘
鐘撞堂跡」があります。
(説明板)
「石町時の鐘 鐘撞堂跡
所在地 日本橋室町四丁目五番
本町四丁目二番 地域
時の鐘は、江戸時代に本石町三丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康
とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永八年(一七一一)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町五?二)に移されて残っています。
鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町三丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから本石町三丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が、平成十四年三月に「時の鐘通り」と命名されました。
近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
(現在の時の鐘(十思公園内)と改訂江戸之下町復元図を掲示)
平成十五年三月 中央区教育委員会」
時の鐘の説明板に続いて、説明板「夜半亭‐与謝蕪村居住地跡‐」があります。
(説明板)
「夜半亭‐与謝蕪村居住地跡‐
所在地 中央区日本橋室町四丁目五番
日本橋本町四丁目二番付近
夜半亭は、元文二年(一七三七)に俳諧師早野巴人(一六七六〜一七四二)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。
この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(一七一六〜一七八三)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
蕪村は、安永三年(一七七四)巴人三十三回忌追善集「むかしを今」の序文で、「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかいをかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。
寛保二年(一七四二)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。
やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和七年(一七七○)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。
鎌倉誂物 宰町自画
尼寺や 十夜に
届く 鬢葛
(「卯月庭訓」夜半亭時代の蕪村自画賛を掲示)
平成十九年十月 中央区教育委員会」