「青井」は「精出耕地」に由来
青井地域は江戸時代以来、12カ村の耕地が入り組み、区画が複雑でした。
そのため、戦後の住居表示による新町名を決める際も議論がまとまりません。
最終的に「精出耕地」(せいだしこうち)の「精」より「青」、「耕」より「井」をとって、「青井」と命名されました
「精出耕地」とは、江戸時代の新田開発のときに、最後まで残された荒地を、
各村が苦労して開拓(精を出して荒野を耕す)したことからこの名がついたといわれています。
<青井の寺社など>
○ 四ツ家稲荷神社
○ 二ツ家愛宕神社
○ 増福寺
○ 竜井堀親水水路
下妻道
下妻道の起点は足立区の千住で、終点は奥州道と合流する栃木県さくら市の連城橋南詰です。
陸奥に向かった源頼義・義家が通ったとされます。
○ 下妻道起点
○ 名倉医院
○ 青井の下妻街道石碑
○ 六町神社(地蔵堂)
○ 内匠本町
○ 不動院(矢納弁天)
○ 浮塚氷川神社/水神社(八潮市)
○ 宝幢寺松之木墓苑(八潮市)
○ 連城橋道標(奥州道合流点)
四ツ家とは、高橋(2軒)・鶴飼・市川の4家を「草分四ツ家」といい、それが地名となりました。
<四ツ家の餅なし正月> 足立区HP
四ツ家(青井1丁目、2丁目付近)にはお正月には餅を食べないという風習があります。
四ツ家の村を開発した4軒の高橋(2軒)、鶴飼、市川の旧家は、以前は武士でしたが身分を捨てこの地の開拓に従事したと伝えられています。
この地に落ち着いたのが年の暮れのだったので、餅米はなく、餅をつく余裕もなかったので、正月に芋雑煮ですませたということです。
その後も、開拓当時の苦労をしのぶために、正月には餅を食べずに、芋雑煮でまにあわせてきたといいます。
他の説には、将軍が鷹狩にこられた正月に家から火を出してしまい、正月に火を使って餅を食べることを禁止したというものがあります。
<槐新田>
槐新田(次郎左衛門新田)は、次郎左衛門等の村人が開いたと言われています。
<現在の四ツ家稲荷神社>
四ツ家のある次郎左衛門新田には、東の宮と西の宮の二つの稲荷社がありました。
明治となり現在地にあった西の宮に東の宮が合祀され、その際、鵜飼家の屋敷神だった徳川家康も合祀されました。
<神狐>
昭和46(1971)年の建立です。鍵が急所に刺さっています。
<社殿>
<神輿庫>
宝永年間(1704-1711)に当地を開拓した二軒のうちの平田家が邸内の鎮守として祀っていた祠を、
文久3(1863)年に村人たちが相謀り、移築・鎮座して当地二ツ家の鎮守として祀ったといいます。
<二ツ家新田>
二ツ家新田は、織田家旧臣の平田利兵衛、若菜の両家が開発、家が二軒しかなかったことが地名の由来です。
<現在の愛宕神社>
(説明板抜粋)
「東京都内には、港区愛宕山の愛宕神社と、その分社の練馬区田柄の愛宕神社、そして当、愛宕神社の三社があります。
愛宕神社は、荒川区・葛飾区・北区などの隣接区にはありません。東京東部では唯一の愛宕様です。」
<手水鉢>
<社殿>
<御岳・三笠山・八海山の三山碑>
一心講による建立。安政5(1858)年銘。
その他
増福寺は、二ツ家を開発した平田利兵衛が開基、慶龍和尚が開山となり、正和元(1615)年に創建したといいます。
二ツ家を開発した平田、若菜両家の菩提寺です。
荒綾八十八ヶ所霊場49番札所です。
<札所碑>
「荒綾八十八ヶ所第四十九番 増福寺 字二ツ家
是ヨリ六丁地蔵堂」
<山門>
閉ざされています。
<本堂>
<百躰庚申塔(嘉永元年銘)> 移設元:足立区青井5-1下妻街道
嘉永元(1848)年銘の庚申塔(百躰庚申塔)です。二ツ谷庚申講中が造立。
<青面金剛庚申塔(寛政十二年銘)> 移設元:足立区青井5-1下妻街道
寛政12(1800)年銘の庚申塔です。二ツ谷庚申講中が造立。
<宝永三年(1706)銘道標> 移設元:足立区青井5-1下妻街道
(こちらでも記載)
宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。
「是より□□□
花又村 不動院ヘヨシ
施主 中村□太夫」
竜井堀親水水路は、青井小学校の雨水を循環利用している水路です。
<青井みどり公園> 足立区青井4-37-1
青井みどり公園の前の開渠の竜井堀親水水路です。