○ 旧板垣家住宅主屋(国有形文化財)
○ 横山家住宅(足立区文化財)
○ 千住絵馬屋・吉田家
○ 千住名倉医院(足立区史跡)
○ ヤマダヤ洋品店
○ お休み処 千住街の駅
旧板垣邸宅は、旧日光街道と旧水戸街道分岐する角、学びピア21前の広い道路(通称「板垣通り」)に面してあります。
洋館付二階建和風住宅で、令和4(2022)年10月31日に国の有形文化財(建造物)に登録されました。
旧家板垣家は、川田耕地に存していましたが、大正2年、荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居。その後は荒物屋を開業し商売を営んでいました。
現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和13年に住宅として建てたものです。
現在は、「和食板垣」として営業し、かき氷専門店も営業しています。
<和食板垣」パンフレット挿絵>
<板垣通り>
浅草紙の生産は浅草から近郊農村の足立が主産地となりました。
千住の地漉紙問屋の一つが横山家です。
大川町氷川神社に紙すきの歌碑がありますが、元は「千住北組五丁目鎮守八幡社」にありました(千住新橋下流の堤防辺り)。
説明板が更新(平成2年10月→令和元年12月)されているので、加筆します。
(説明板)
「横山家住宅
横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。
横山家住宅は戸ロが街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約二十三・五メートル)、奥行が五十六間(約一○ニメートル)で鰻の寝床のように長い。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(一九三六)に改修が行われている。間口が九間(約十六メートル)、奥行が十五間(約二十七メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。
上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貢いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
令和元年十二月 足立区教育委員会」
<横山家の蔵>
(説明板)
「横山家の蔵(非公開です)
江戸時代に地漉き問屋を営んだ積山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。
現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。
火災のときには扉や窓を閉め、隙間を埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならいようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。
また、もし火事があったら、1週間は開けてはいけないと言われていました。
天井に、明治9年(1876)と書かれた練札があり、この蔵がつくられた年がわかります。
外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。
外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。
デザイン的にもポイントになっています。
腰巻部分には煉瓦が使われています。
入口の扉は二重になっています。
内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。
このパネルは、千住・町・元気・探検隊 千住研究会の調査をもとに作成しました。令和2年1月 ADACHI
CITY」
※内蔵は、「やっちゃ場」(千住河原町)に移築され、「千住宿歴史プチテラス」として使用されています。
説明板が更新(平成4年3月→令和2年3月)されているので、加筆します。
(説明板)
「千住絵馬屋・吉田家
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきさた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(一九八三)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。
絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化となっている。
地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置さ換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にLたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。
令和ニ年三月 東京都足立区教育委員会」
「小絵馬 向かい目・向かい狐・飛び狐」(足立区立郷土博物館蔵)
「どぶ板で名倉れましたと駕籠で来る」〔柳多留九七〕
「名倉」は名倉医院、「殴られ」と「名倉れ」のシャレです。
江戸時代の川柳にも詠まれた名倉医院。
「名倉」といえは、接骨院の代名詞になるほどで全国の名倉接骨院の発祥地といえます。
患者が宿泊して加療できるための加療宿は最後に残っていた金町屋が取り壊され、
名残を留めるのは名倉医院以外は残っていません。
説明板が更新(平成23年3月→令和3年3月)されているので、加筆します。
(説明板)
「千住名倉医院
骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったため、駕籠や車で運ばれてくる骨折患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。
名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(一七一六〜三六)に千住へ移り、明和七年(一七七○)に業祖名倉直賢が接骨院を開業したと伝わる。三代尚壽が嘉永元年(一八四八)に将軍家御成のために創建した母屋や、長屋門が現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。
名倉家当主は、業祖以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と交流した。特に四代彌一の交流は幅広く、松形正義、橋元本雅邦、菱田春草、横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。彌一と此の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の琳派絵師・村越向栄と親交し美術や文化の遺産を伝えた。
千住名倉医院は、ただずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。
令和三年三月 東京都足立区教育委員会」
閉店している特大サイズの婦人服店です。
大正12(1923)年創業の魚屋だった建物を活用した「お休み処 千住街の駅」です。