Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 綾瀬川

  ○ 六町神社
    ・地蔵堂札所碑
  ○ 六町加平橋(六町河岸)
  ○ えぼ地蔵


六町神社 足立区六町1-11-20

 かつての六町は大部分が竹の塚村と六月村の飛地でした。
 昭和8(1933)年に六町が成立した機会に六月町の八幡神社、竹ノ塚町の竹塚神社の御分霊を清水家邸内社の三峰神社に合祀し六町神社が成立しました。

    

<六町神社の由緒>

(碑文)
「六町神社の由緒
 六町神社の祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・天照皇大御神・誉田別命の四神である。
六町神社は通称<三峯様>と云われ、元は江戸時代中期、六月村の出である清水家(屋号晒屋)の屋敷神であった。当時清水家は三峰神社を崇拝していて祭神である伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱を、屋敷神の祭神として祭祀していた。かつての六町は大部分が竹の塚村と六月村の飛び地で二、三丁目地域には人家はほとんど無く、一、四丁目の綾瀬川近くに二拾数戸の人家があっただけで有った。
これらの人々はそれぞれ本村の氏神に奉詣し竹の塚村の出の人たちは竹の塚神社へ、六月村の出の人たちは、八幡神社かそれぞれの氏神であった。しかし六町の人達は同時に清水家の三峯様も参拝していたのである。一九三三年(昭和八年 ) 南足立郡が東京市に合併されたのを機会に、氏神を統合し竹の塚神社と八幡神社の分霊を三峰神社に合祀し、ここに六町神社が誕生したのである。その結果、六町神社の祭神は三峰神社の伊邪那岐命・伊邪那美命、竹の塚神社の天照皇大御神、八幡神社の誉田別命を合わせて四神を祭祀させて頂くことになったのである。以前の境内地は一九五八年(昭和三十三年)より綾瀬川以西第一土地改良区の農地攻良基盤整備事業の遂行に伴う組合地を六町神社氏子有志(一四一名)の御寄進によって譲り受け、六町神社境内地として整備し一九六六年(昭和四十一年)九月吉日に遷座した。一九七七年(昭和五十二年)四月吉日に宗教法人六町神社として神社本庁より認可された。一九九八年(平成十年)三月、東京都市計画事業六町四丁目付近土地区画整理事業が決定され、告示により六町神社境内地も区画整理事業地域に含まれる事になった。六町神社は六町地域の基軸であり、特に社務所は町内唯一の集会所として町会活動はもとより、青少年健全育成、生涯教育、その他の活動に重要な役割を供する場所である。この度の区画整理事業により境内地が減歩される事は、諸々の活動に多大な支障を来す恐れがあると考慮し六町神社氏子会は平成七年度より、役員会で協議
して土地区画整理事業による境内地の減歩を補い、可能な限り境内地を拡張できるよう努力する事が決定した。平成十年十二月、目的達成に向けて六町神社整備奉賛会を結成し、その趣旨に賛同された二十六名の方々より土地一七四坪(二十四戸)と更に整備資金五千弐百万円余が御寄進された。平成二十年十月三十一日、東京都第二E画整理事務所より寄進地が換地され、平成二十一年一月吉日より神社御造営に着手、順調なる工事施工のもと、多くの寄進者、協力者のお蔭を以て平成二十一年八月吉日ここに深遠なる神社の勧請を見たものである。
  平成二十一年九月吉日  宗教法人 六町神社 六町神社氏子会・興隆整備奉賛会(以下役員氏名)」

   

<狛犬(狼)/社殿>

 三峰神社に関連して、狛犬は狼なのでしょうね。

    

   


○六町神社社務所 足立区六町1-11-21

 六町神社の境内より、社務所の境内のほうがべらぼうに広いです。

  

<鷲大明神・矢納弁才天道 道標>

 鷲大明神・矢納弁才天への道標があります。
 道標の正面が玉垣の真裏に面しているので、正面が見えにくいです。

   

 (正面)「鷲大明神 矢納弁才天 道」
 (右面)「東 八条領 二合半領 道
       榎戸 八丁 千住 壹里」
 (左面)「西 此道馬ひく編可ら須」
 (裏面)「□永二年 酉二月」
     ※「□永二」と「酉」の組合せは宝永と嘉永のみ。宝永2(1705)年か、嘉永2(1849)年のどちらか。

     

 ※「馬ひくべからず」とあるのは、下妻街道は参詣者が多く安全確保とか、宗教上の理由からでしょうか。
  下妻街道は馬を曳いて下肥を運べないとなるので、下肥は綾瀬川を舟で運んでいたこととなります。
   
 「東都花暦 隅田堤之桜」(英泉)では、隅田堤を長綱で馬を曳いています。
  明治時代になると東京府内は条例で長綱で馬を曳くことや、下肥の桶に蓋をしないことは禁止されました。 

    

<漱水>

 「漱水」と刻まれた手水鉢があります。
 最初、明治45年9月と読みましたが、明治45年は7月で終わっているので、明治15年でしょうか?

   

<土地整美記念/力石>

 大きな土地整美記念碑の裏に、力石が二基並んでいます。

    

   

【庚申塔/地蔵堂/道標など】

   

<庚申塔>

 寛政5(1793)年銘の笠付庚申塔です。

     

地蔵堂札所碑/円泉寺道標>

 荒綾八十八ヶ所霊場第22番の地蔵堂の札所碑と思われます。
 荒綾八十八ヶ所霊場第71番の円泉寺(加平2-6-16)への道標も兼ねているようです。

 「第二十二番地蔵堂」
 「是・・・円泉寺へ 十丁」

   

<弘法大師像?>

 隣に弘法大師霊場の札所碑があるので、もしかして第22番札所の弘法大師座像でしょうか。

  

<とろけ地蔵>

 とろけてしまっている地蔵像です。地蔵堂のご本体の地蔵でしょうか。

  

<地蔵頭部/石祠>

 綾瀬川の新加平橋上流で発見された地蔵の頭部です。
 新加平橋下流(旧嘉兵衛橋袂)で発見された「えぼ地蔵」(足立区加平)の頭部と考えられています。

  

<石祠>

 文字が全く読めないのが残念。

  

<不詳供養塔>

  

<宝永三年(1706)銘道標>

 宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。
 足立区立郷土博物館に保存されている道標(移設元:下妻街道青井)と同型です。

 「是より□□□
  花又村 不動院ヘヨシ
  施主 中村□太夫」

     


六町加平橋(六町河岸) 足立区六町1-9〜加平2-22

 綾瀬川に架かる内匠橋と新加平橋の間に六町加平橋があります。
 令和3(2021)年3月に全面開通しています。

   

<六町河岸>
 かつて六町には河岸があり、六月村の米の集積所だったようです。(足立区立郷土博物館展示資料より)

  


えぼ地蔵(塩地蔵) 足立区加平1-2-37

 首都高速6号線加平ランプ裏の道路沿いに小さな祠があります。
 この祠に祀られているのが「えぼ地蔵」です

 「えぼ地蔵」は、元禄8(1695)年頃に綾瀬川の拡張工事を行なった際、嘉兵衛橋(現:新加平橋のすぐ下流)のすぐ上から発見され、
 嘉兵衛橋東詰に祠が建てられ、昭和39(1964)年に区画整理で現在地に移されたそうです。

     

 右にある小さい地蔵が本来のえぼ地蔵で、大きい地蔵は後から作られたもののようです。両地蔵とも頭部はありません。
 胴体だけのえぼ地蔵ですが、新加平橋の上流から発見された地蔵の頭部が「えぼ地蔵」の頭部と考えられているとのことです。
 頭部は、六町神社の覆屋に祀られています。

   


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