○ 内匠本町
○ 七面神社
○ 内匠橋(榎戸河岸)
○ 不動院(矢納弁天)
内匠本町は、昭和53(1978)年2月に実施された住居表示により、南花畑の一部となった地域です。
町内会名や児童遊園名、内匠橋の名称等にその名残りを留めています。
住民のほとんどが芦川姓で、日蓮宗を信仰し七面神社を氏神とし、他地区にない特徴があります。
内匠という名前はその昔、武田氏の家臣だった芦川内匠がこのあたりに土着し、新田開発に従事したからと伝えられています。
江戸時代、この地は内匠新田と呼ばれました。
パネル「移住と開発の奨励」から抜粋(足立区立郷土博物館)
武田氏の家臣だった芦川内匠がこのあたりに土着し、一族の守護神として七面神社を祀ったと伝えられています。
七面大明神は、日蓮宗信仰の総本山・身延山久遠寺の守護神です。
江戸の中では延命院の七面大明神が、江戸名所の一つとして多くの参詣者を集めました(こちらで記載)。
七面神社の土地は、元は芦川家の所有地で、境内には芦川家の墓地があります。
境内には「内匠本町会館」があり、「内匠本町児童遊園」が併設されています。
鳥居と参道。左手に芦川家の墓地があります。
参道には階段の脇にスロープが設けられています。歌碑?があります。社殿前に絵馬掛けがあります。
手水鉢、社殿と扁額「七面大明神」
社殿内と参道を振り返ったところ。
<内匠本町会館> 足立区南花畑3-17-5
「内匠本町会館」は、七面神社の境内にあります。
<内匠本町児童遊園> 足立区南花畑3-17-5
「内匠本町児童遊園」は、七面神社に併設された児童遊園です。
内匠本町会が清掃や除草を行っています。
綾瀬川に架かる内匠橋の両岸には、かつて榎戸河岸がありました。
榎戸河岸には、江戸への乗り合いの船もあり、鷲大明神社や矢納弁天社への参詣にも利用されました。
<小林一茶と榎戸>
文化7(1810)年6月13日、小林一茶は、桜井蕉雨を伴い二郷半領(三郷市)の文人加藤定雅を訪ねました。
二人は山谷で猪牙舟に乗り隅田川から綾瀬川に入り、榎戸で舟を下りて食事をとりました。
小菅川(綾瀬川)に入り合歓の木が盛りなのを見て、
「古舟もそよそよ合歓のもやう哉」(一茶)
「遠くからくゝり支度や竹の露」(一茶)
「向の木合歓の仲間の花らしや」(蕉雨)
江戸に出荷される茄子やささげの野菜の中に夏菊を見て、
「朝涼に菊も一艘通りけり」(一茶)
舟を降り流山道に歩みを進めるにあたって、
「合歓の露浴ねばならぬ支度哉」(一茶)
などと詠みました。(七番日記より)
上流 下流(スカイツリーが見えます)
<花畑・六木の分岐点道標> 足立区立郷土博物館(移設元:内匠橋)
花畑・六木の分岐点(内匠橋)にあった道標が足立区立郷土博物館に保存されています。
明和4(1767)年銘の「庚申講中」による道標です。
「庚申講中」が造立したので、道標型庚申塔ですか?
(正面)「左 棋戸道 是より千住迄 一里半」
(右面)「右 ニがう半道 是より戸ヶ崎渡場迄
廿丁」
「明和四丁亥十一月吉日庚申講中」
<武州渕江米の集積所>
榎戸河岸は武州渕江米の保木間村、伊興村、竹塚村の集積所だったようです。
(足立区立郷土博物館展示資料より)
不動院は、天喜2(1054)年に開山されたと伝えられています。
荒綾八十八ヶ所霊場85番札所です。
矢納弁天社は、源義光が矢を納めたことから矢納弁天と称されるようになったといわれています。
また、花又村は源義光が名付けたと伝えられています。
「東都花暦名所案内」
「東都花暦名所案内」に「矢納弁天」と記されています。
江戸時代には鷲明神とともに認識されていたことが伺えます。
【下妻街道の道標】
<宝永三年(1706)銘道標> 足立区立郷土博物館(移設元:足立区青井5-1下妻街道)
宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。
「是より□□□
花又村 不動院ヘヨシ
施主 中村□太夫」
<宝永三年(1706)銘道標> 六町神社社務所(足立区六町1-11-21)
宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。
上記と同型です。
「是より□□□
花又村 不動院ヘヨシ
施主 中村□太夫」
<鷲大明神・矢納弁才天道 道標> 六町神社社務所 足立区六町1-11-21
鷲大明神・矢納弁才天への道標が六町神社にあります。
(正面)「鷲大明神 矢納弁才天 道」
(右面)「東 八条領 二合半領 道
榎戸 八丁 千住 壹里」
(左面)「西 此道馬ひく編可ら須」
(裏面)「□永二年 酉二月」
※「□永二」と「酉」の組合せは宝永と嘉永のみ。宝永2(1705)年か、嘉永2(1849)年のどちらか。
※「馬ひくべからず」とあるのは、下妻街道は参詣者が多く安全確保とか、宗教上の理由からでしょうか。
下妻街道は馬を曳いて下肥を運べないとなるので、下肥は綾瀬川を舟で運んでいたこととなります。
「東都花暦 隅田堤之桜」(英泉)では、隅田堤を長綱で馬を曳いています。
明治時代になると東京府内は条例で長綱で馬を曳くことや、下肥の桶に蓋をしないことは禁止されました。
<不動院山門>
山門左手に寺号標、右手に霊場札所碑などがあります。
<三界萬霊塔>
<札所碑等>
左は上半分が折れて失われているようです。
蛇体(宇賀神)が陽刻された道標の下半分と表記がそっくりです。
右は荒綾八十八ヶ所霊場85番札所の札所碑です。
<庚申塔四基>
本堂右脇に庚申塔が四基並んでいます。
左から、
・寛文7(1667)年銘の三猿庚申板碑
中央「奉待庚申二世安樂処」
・明和4(1767)年銘の青面金剛庚申塔
・造立年不詳の青面金剛庚申塔
・弘化3(1846)年銘の庚申文字塔
台座に「榎戸講」
(説明板)
「不動院の庚申塔群
正面に向かって左から寛文七年(一六六七)銘・明和四年(一七六七)銘・年不詳・弘化三年(一八四六)銘
不動院は山号を江亀山、寺号を薬王寺とする真言宗豊山派寺院である。寺伝によれば天喜二年(一〇五四)、源範僧都開山とされ、本尊薬師如来を安置する。
山門を入って右、本堂脇に立つ四基の石造物は庚申塔と呼ばれる。
庚申塔は、我が国で平安時代以来盛んであった庚申信仰に基づいて造立された。この信仰は古代中国の道教から発生し、六十日でひと回りする十干十二支の「庚申」の夜、寝入ると体内から三尸という虫が天に昇りその人の日頃の悪事を天帝に告げ、寿命が縮まるので徹夜をして三尸が抜け出るのを防ぎ長寿を祈る俗信である。時代が下ると庶民にも広がり、江戸時代には村々に講が結成され、順番に宿を決め寄り集まって夜通し娯楽に興じることが主な目的となった。三年で結願とされ、庚申塔が造立された。
庚申信仰が石造物として最初に現れるのは中世の板碑である。寛文七年銘の板碑型の形態は、庚申塔が板碑から他の形へ移行する過程で多く造立された。明和四年銘は駒型で、庚申塔として最も典型的な青面金剛が陽刻される。この二基は、複数の造立者名とともに三猿を刻んでいる。年不詳の庚申塔は、角柱型で青面金剛が邪鬼を踏んでいる。弘化三年銘は駒形で、「庚申塔」と文字が刻まれている。台石には、「榎戸講」というこの付近にあった講の名が刻まれている。一般的には青面金剛等の主尊を刻まず、文字を刻む庚申塔は、新しいものが多く、この庚申塔も江戸時代末期に造立されたものである。
四基の庚申塔は、旧花又村内に造立されたものが後に不動院に集められたと思われる。江戸時代の地域の信仰や習俗を知る資料として、いずれも平成十八年三月に足立区登録有形民俗文化財となった。
平成二十二年三月 足立区教育委員会」
<矢納弁財天>
本堂右手奥に、昭和51(1976)年に再建された矢納弁財天堂があります。
後三年の役の戦勝祈願の成就をした源義光が矢を納めたことから、矢納弁天と称されるようになったといわれています。
<手水鉢>
宝暦14(1764)年銘の手水鉢です。
「宝暦十四甲申三月吉日」
「神田大工町 勝田利右衛門」
<狛犬>
「榎戸 若者中」の奉納です。
<矢納弁財天堂>
<矢収辯財天供養塔>
新羅三郎義光の名が刻まれている嘉永2(1849)年銘の矢収辯財天供養塔です。
蛇体(宇賀神)が陽刻されています。
弁財天は音楽・芸能の上達に霊験があり、江戸時代には「花柳界」の芸子たちに特に篤く信仰されました。
綾瀬川を舟で上り、あるいは千住から下妻道を利用して、多くの参詣者が訪れました。
(正面)「新羅三郎□□朝臣」
「矢収辯財」
(左側面) 「嘉永二〜建之」の銘があります。
(右側面) 願主が刻まれていますが破損で読めません。
寛永9(1632)年に、信濃上田藩第二代藩主の仙石政俊が増上寺の台徳院霊廟に奉献した石燈籠です。
台徳院は2代将軍・秀忠です。今まで見た奉献石燈籠の中で、一番の大きさです。
「奉拜進
台徳院殿 尊前」
「寛永九壬申年七月二十四日」(二が赤く塗られていない)
「仙石兵介源政俊」
<修行大師像/六地蔵等>
<本堂>
本堂右手に、再建寛政記念碑があります。
「本堂 弁財天堂 山門客殿庫裡
不動院再建完成記念碑
昭和五十一年四月」