Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 隅田川テラス 尾久橋〜尾竹橋

  ○ 熊野の渡し
  ○ 隅田川テラス(東尾久〜町屋)
    ・隅田川旧防潮堤
    ・尾久の原
    ・ペタンコ座りのユリカモメ
    ・修景工事銘板
  ○ 上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音/庚申塔)
  ○ 十三坊塚


熊野の渡し 荒川区東尾久8-25

 尾久橋斜路階段の袂に、説明板「熊野の渡し」があります。

   

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 これより北に約50メートル
 熊野の渡し
 東尾久8丁目と足立区小台1丁目を結んだこの渡しは、 昭和25年3月まで近隣の住民に親しまれ利用されていた。
  荒川区教育委員会」

  


隅田川テラス 東尾久8丁目・7丁目/町屋5丁目・6丁目

 尾久橋から隅田川右岸の隅田川テラスに降ります。

   

 振り返ったところ。隅田川左岸に、日暮里・舎人ライナーの足立小台駅が見えます。

     

 進みます。

    
 

隅田川旧防潮堤 荒川区東尾久7-3

 カミソリ堤防の一部が、モニュメントとして保存されています。

    

    
 
(プレート文)
「東京都は隅田川の高潮や洪水の対策として、昭和三十二年からコンクリート防潮堤建設に着手し、昭和五十年に概成しました。その結果、隅田川は高潮や洪水に対する危険性が大幅に減少しましたが、川とまちは分断されてしまい、都民は隅田川から遠ざけられてしまいました。
 このため、現在、東京都では隅田川を高潮や洪水に対し、より安全で都民が河川と親しめる潤いのある水辺環境に配慮したスーパー堤防へと造りかえています。
 このモニュメントは隅田川スーパー堤防の整備にあたり、これまで幾多の台風、洪水から地域を守ってきた直立の防潮堤を後世に伝えるため、その一部を保存するものです。
 下の絵図は、『江戸名所花暦』に綴られている「尾久原桜草」です。隅田川では船に乗った人たちが網を引き、競って白魚を獲っています。河岸では一面に咲いた桜草を行楽客が摘んでいる様子が描かれています。
  平成二十年三月  東京都江東治水事務所」

   

「江戸遊覧花暦 尾久原桜草」(国立国会図書館蔵)

 尾久の原での桜草の花見と、白魚漁りの風景が描かれています。
 本文には
「尾久の原 王子村と千住とのあひだ 今は尾久の原になし 尾久より一里ほど王子のかたへ行きて野新田の渡しといへるところに俗よんで野新田の原といふにあり 花のころはこの原一面の朱に染む如にして朝日の水に映ずるがごとし またこの川に登り来る白魚をとるに船にて網を引きあるひは岸通りにてすくひ網をもつて人々きそひてこれをすなどる 桜草の赤きに白魚を添へて紅白の土産なりと遊客いと興じて携へかへるなり」とあります。
 尾久の原は、白魚と桜草が名物で、白魚を獲り、桜草を摘んで紅白にして土産にしていました。
 しかし本書が出された時には、乱獲で尾久の原からは桜草は消え土筆の名所に変わり、
 桜草の名所は上流の「野新田の原」(こちらで記載)に変わりました。

   

 桜草を摘んでいるこどもと女性が見えます。隣の女性は土筆(つくし)を獲っています。
 まだ寒い時期なので、花見の宴会の料理を鍋にかけています。
 苫をかぶせた川越夜舟が見えます。
 「川越夜舟」は、川越を夕方出発し翌朝に千住宿の橋戸河岸に到着しました。
 屋根にアシの葉で編んだ苫(雨おおい)をかぶせて雨や寒さを防きました。

    

 「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)にも、苫をかぶせた川越夜舟が描かれています(こちらで記載)。

   

 進みます。

     

 対岸の奥には荒川の土手が見えます。水辺のエコトーンが出現しました。

    

 尾竹橋が見えてきました。

     

 ドンキホーテは解体中でした。

  
 

ペタンコ座りのユリカモメ>

 ユリカモメは、冬になるとシベリアやカムチャッカから渡来してくる渡り鳥です。
 上陸が禁止されている第六台場(国史跡)がユリカモメの大群の寝城となっています(こちらで記載)。
 ユリカモメは「都民の鳥」に指定されています。日比谷公園に「かもめの広場」があります(こちらで記載

 堂々のアップ。赤いくちばしと足、目の後ろに黒い斑点が特徴。
    

 飛ぶか、飛ぶようだ、飛んだ。両翼の先端が黒いのも特徴。
    

 同じ方向を向いて整列しているのが一般的に見る光景ですが、向きがバラバラ、首を丸めて寝ているのもいて、整列が乱れています。

   

  

 ある程度近寄っても逃げません。
 「いざ言問はん都島」の場面も、渡し舟の在原業平と川面のユリカモメは話ができる近さだったのだろうと実感します。
 「東都名所図会 隅田川渡しの図」(広重)には、渡し舟に上がりこんでいるユリカモメがいます。

   

 至近距離から撮ると、なるほどね、斜めの欄干に水かきでしっかり体をホールドしています。
 鳩だと滑って落ちますね。

   

 羽を休めるほか、足まで休めているユリカモメがいます。遊歩道に堂々とペタンコ座りのユリカモメもいます。
 ペタンコ座りのユリカモメは初めて見ました。

     

 他の鳥はすぐ逃げるので撮れませんでした。撮れたのは、ハクセキレイとコガモ。

    
 

<河川巡視船「ちどり」>

 運よく河川巡視船「ちどり」が撮れました。

  


修景工事銘板

 「2008年3月
  隅田川(東尾久地区)修景工事(その2)
   ← 延長 206m
   東京都
   興新建設株式会社施行」

 「2011年3月
  隅田川(尾竹橋上流)右岸修景工事
     施行延長 665.8m
   ← 区間延長 489.5m
   東京都
   CRS株式会社施行」

 「2011年3月
  隅田川(尾竹橋上流)右岸修景工事
     施行延長 665.8m
   ← 区間延長 176.3m
   東京都
   CRS株式会社施行」

 「2000年3月
  隅田川(町屋地区)修景工事
  延長 110.5m →
  東京都
  株式会社オーケーソイル施行」

     


○上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音) 荒川区東尾久7-4

 2つの祠と馬頭観音や荒川区内最古の庚申塔などがスーパー堤防建設によりここに移設されています。
 かつて、このあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれており、この秣場の中に、馬捨場がありました。
 栃木県では多く見る馬捨場の馬頭観音群ですが、都内には少ないのでしょう。

    

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
 馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目三六一二番地、三四八四番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石像物がここに移設された。
 かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の飼料とする草の共有の採取地のことをいう。江戸後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
 この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋納が求められた。
 明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(一八四一)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また、開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(一六三八)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。
  荒川区教育委員会」

  

<石塔群>

 左の石塔群
     

      

 右の石塔群。
 右から4基目に昭和6(1931)年の馬頭観音、一番左に大正15(1926)年の馬頭観音。

     

      

<二祠>

 左は説明板によると「竹駒稲荷」のようですが、祠内には「弘之神社」とあります。

    

<馬頭観音/庚申塔>

 馬頭観音が2基祀られています。左は説明板に記載のある天保12(1841)年の馬頭観音です。
 奥に、荒川区最古の寛永15(1638)年の板碑型庚申塔が祀られています。

    

 説明板によると、馬捨場の本来の位置は現在地より西方50mのところとのこと。
 隣接して南側に「尾久の原公園」があります。
 余談ですが足立区から続いて隅田川を越えてきた送電塔が、ここで途絶えます。ここから地中なのでしょう。

    

 ついでに階段を上って隅田川テラスへ。隅田川上流と下流の光景。そして欄干のユリカモメたち。

    


○都立尾久の原公園 荒川区東尾久7-1

 「都立尾久の原公園」の前を通る「旭電化通り」の歩道に、説明板「十三坊塚」があります。

     

十三坊塚>

 「新編武蔵風土記稿」によると、上尾久村に四ヶ所、下尾久村に八ヶ所の塚があって、それらを「十三坊塚」と呼んだといいます。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 「十三坊塚」
 文政十一年刊の「新編武蔵風土記稿」によると、上尾久村に高さ五尺(約一五○cm)ばかりの塚が四ヶ所、下尾久村に高さ五尺、周囲七八(約二一○〜四○cm)の塚が八ヶ所あって、それらを「十三坊塚」と呼んだという。この内、下尾久村にあった砂利塚からは太刀と具足が出土したと記されている。
 この塚は両村の境にあったと思われ、上尾久村には「十三坊」という小字があった。十三坊塚は全国に分布し、境界の目安や、村境において災いや疫病・害虫の侵入を防ぐ役割を果たしていたものと推測されている。塚は大正初期まで八基ほど残っていたが、大正六年に旭電化の敷地となって消滅した。「旭電化通り」の名は、この地にあった旭電化工業尾久工場にちなむ。
  荒川区教育委員会」

   


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