○ 橋戸河岸
・川越夜舟と橋戸河岸
・千住節(川越舟歌)
・川蒸気
・京浜間蒸気船
・通運丸
○ 橋戸稲荷神社
千住宿の橋戸河岸は、川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、鮮魚を運んだ「川越夜舟」の中継地として水運で江戸の繁栄を支えました。
やがて、大正3(1914)年の東上線の開通を経て鉄道輸送が台頭し、水運は衰退していきました。
「川越夜舟」は、川越を夕方出発し、翌朝に千住、昼に浅草花川戸に到着しました。このため川越街道の宿場は客足が減少したようです。
「川越夜舟」は、屋根にアシの葉で編んだ苫(雨おおい)をかぶせて雨や寒さを防きました。
「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)に、橋戸河岸に苫をかぶせた川越夜舟らしきものが描かれています。
日帰り温泉施設「小江戸温泉 KASHIBA」の施設名は、新河岸川の河岸場にちなんでいます。
壁面イラストに江戸までの水運ルートが描かれています。イメージが少々異なる「川越夜舟」も描かれています。
川越夜舟の船頭達などにより歌われていたのが、千住節(川越舟歌)です。千住宿の飯盛旅籠から流行ったようです。
「千住大橋際歴史資料空館」(千住大橋橋詰テラス)に掲示の「千住の橋戸河岸」から「千住節(川越舟歌)」を抜粋します。
(説明板)
「千住節(川越舟唄)」
富士下離れりや荒川までは竿も櫓かいも手につかぬ
千住出てから牧の野までは雨もふらぬにそでしぼる
千住川さえ竿さしや届くまして届かぬ主の胸
江戸と小江戸と呼ばれた川越を結んだ川越夜舟の船頭達などにより謳われていた。」
「千住大橋際歴史資料空館」(千住大橋橋詰テラス)に掲示の「千住の橋戸河岸」から「川蒸気の登場)」を抜粋します。
(説明板)
「川蒸氣の登場
江戸時代以来、江戸との交通には舟運も利用されていたが、明治に入り川蒸氣が登場した。
明治八年には、千住大橋と両国橋間に川蒸氣船が開通。船賃は六銭であった。
吾妻橋から千住大橋間は二銭、川蒸氣はその後も路線が拡大した。
俗に一銭蒸氣と言う言葉がありますが、これは運賃が一銭であったことに因む。」
「吾妻汽船千住大橋發着場」(荒川区史 東京市荒川区 昭和11年)
「荒川区史」の記述によると、「一銭蒸気」と呼ばれた隅田川汽船(現在の東京都観光汽船株式会社:こちらで記載)は、
千住大橋と吾妻橋間も営業しており、開花の季節には江北まで遡ったとあります。
また吾妻急行汽船は千住大橋と吾妻橋間を往復し、南千住町汐入と学校前に停船場を置いているとあります。
千住汽船は千住大橋と王子を往復しているとあります。
「千住渡船場」(足立区立郷土博物館蔵)
解説によると(引用)、
「千住大橋上流の橋戸町岸にあり、浅草吾妻橋まで定期船が出ていた。所要時間1時間、昭和初期の運賃5銭。明治18(1885)年の開通で「一銭蒸気」ともいった。」
明治初年の京浜間では多くの蒸気船が就航しています。
「東京築地ホテル館」(三代歌川広重 明治3(1870)年 築地よりみち館)
蒸気外車船「シティ・オブ・エド号」が描かれています。
隅田川の「一銭蒸気」より先行していたのが、明治10(1877)年に就航した内国通運会社(現在の日本通運株式会社)の「通運丸」です。
利根川水系を代表する長距離航路の定期貨客船でした。
田山花袋や森鴎外等も乗船しています。
「東京両国通運会社 川蒸気往復盛栄真景之図」(歌川重清 明治15年 足立区立郷土博物館蔵)
内国通運会社の通運丸乗船所と外車式汽船通運丸が描かれてます。
乗船所入口には「郵便御用蒸気通運丸乗船所」と書かれた看板と、寄港地の河岸名を描いた木札が掛けてあります。
「江戸名所図会 千住川」
「江戸名所図会千住川」に「いなり」(橋戸稲荷神社)が見えます。
<橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵>
鳥居左手にある説明板「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵」です。
(説明板)
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵 登録 昭和五七年一二月
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九○)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
文禄三年(一五九四)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
文久三年(一八六三)拝殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白虎が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
平成十六年三月 足立区教育委員会」
<矢穴の石>
江戸城石垣石によく見られる矢穴のある石があります。
<睦逎松碑>
<手水舎>
<獅子山>
獅子山の上には神使狐です。
<橋戸神社縁起碑>
平成2(1990)年の建立です。
<拝殿>
扁額は「神威」です。
<本殿>
(説明板)
「伊豆長八作 鏝絵
橋戸稲荷神社本殿は、寺社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建造物)である。
正面、観音開き左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八)により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐、左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にもう一匹の子狐と稲穂が配されている。小狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差しや優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものといわれる。
伊豆長八は文化十二年(一八一五)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(一八二六)、郷里で左官となった。天保四年(一八三三)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(一八八九)、東京深川で没した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東・東海の各地に見られたというが、関東大震災などで失われたものが多く、現存する作品は貴重である。
平成二十八年三月 足立区教育委員会」
<鏝絵レプリカ>
本殿の鏝絵のレプリカが拝殿にあります。
向かって左扉の鏝絵:母狐と二匹の子狐と稲穂
向かって右扉の鏝絵:父狐と稲穂
<境内社>
拝殿左手の境内社
拝殿右奥の境内社
<橋戸稲荷神社参拝記念>
「橋戸稲荷神社縁起
この社は延長四年(九二六)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。
祭神 倉稲魂命 と稱し、本殿は延徳二年(一四九○)拝殿は文久二年(一八六二)に建立された。現在の本殿は土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄二匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九○)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
文禄三年(一五九四)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
文久三年(一八六三)本殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白虎が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。」
「伊豆長八作 鏝絵
橋戸稲荷神社本殿は寺社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建築物)である。
正面、観音開き左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八)により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐・左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にはもう一匹の狐と稲穂が配されている。子狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差し・優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものといわれる。
伊豆長八は文化十二年(一八一五)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(一八二六)、郷里で左官となった。天保四年(一八三三)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(一八八九)、東京深川で没した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東。東海の各地に見られたと言うが、震災・戦災で失われたものが多く、現存する作品は貴重である。」