Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 渋谷 金王八幡宮

  ○ 金王八幡宮(渋谷城址)
  ○ 渋谷氷川神社
  ○ 宝泉寺


○金王八幡宮(渋谷城址) 渋谷区渋谷3-5-12 HP

 金王八幡宮は、渋谷城を築き渋谷氏の祖となった河崎基家によって寛治6(1092)年に創建されたといわれています。
 基家の子重家がこの地に館を構えて居城としました。
 渋谷重家の子渋谷金王丸常光は、源頼朝の父義朝に仕えました。
 境内には「金王桜」と名付けられた、一枝に一重と八重が混ざって咲く珍しい桜があることで有名でした。

「江戸名所図会 金王八幡社」

 「金王八幡社」と「東福寺」が描かれています。境となる塀はなく一体に描かれています。
 2枚目は境内部分の拡大です。「金王桜」は現在とは違う場所に描かれています。

   

「江戸名所図会 金王麿影堂」「江戸名所図会 金王麿産湯水」

   

「絵本江戸土産 渋谷金王櫻」(広重)

 広重が渋谷金王櫻を描いています。

  

「渋谷金王丸昌俊早打之図」(国貞改三代豊国)

 渋谷金王丸にまつわる人物を描いており、牛若丸(源義経)や常盤御前が見えます。
 左に「金王丸昌俊」が描かれています。

   

「江戸の華名勝会 こ 五番組 市川新之助/渋谷八幡金王桜/渋谷」(国貞改三代豊国)

 「江戸の華名勝会」は、江戸町火消「いろは四十八組」の各組の名所旧跡を紹介しています。
 上段に、金王所持霊器として「弓と矢」「獅子丸太刀」「毒蛇の長刀」が描かれています。
 右下の渋谷の金王丸に扮した市川新之助は「毒蛇の長刀」を手にしています。
 左下には「渋谷八幡 金王桜」が描かれています。

   

「江戸切絵図」

 「金王八幡宮」「東福寺」「氷川宮」「寶泉寺」部分の抜粋です。

  

「現在の地図」

    

<表参道/大鳥居>

 金王神社前交差点に、平成25(2013)年の大鳥居があります。

  

<社号標/二之鳥居>

  

<西参道>

 西参道に「金王八幡宮 由緒」があります。

(掲示)
「金王八幡宮
御祭神 応神天皇(品陀和気命)
祭礼日(省略)
由緒
 金王八幡宮は、寛治六年(皇紀一七五二年 西暦一○九二年)渋谷氏の祖 河崎基家により鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
 渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語・吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
 また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
 江戸時代には、竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三大将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
 時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として数多の崇敬を集めております。(以下略)」

    

<門> 渋谷区文化財

 表参道、二之鳥居をくぐって、渋谷区文化財の「門」です。

    

(説明板)
「渋谷三丁目5番12号 金王八幡宮
 区指定有形文化財 昭和五十一年三月二十六日指定
  附 渡り廊下  平成二十二年十月七日追加指定
 金王八幡宮社殿及び門 附 渡り廊下
 社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治六年(一○九二)に創建したといわれます。
 現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長十七年(一六一二)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
 門は、明和六年(一七六九)と享和元年(一八○一)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
 このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。
 しかし、その城館は大永四年(一五二四)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
 平成二十二年には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。
  渋谷区教育委員会」

   

<日露戦役紀念碑>

 日露戦争の紀念碑があります。
 「明治卅七八年戦役 紀念碑 希典書」、明治39(1906)年の建立です。
 傍らに十五、二十、二十五、三十年の碑が建っており、三十年の碑は砲弾型です。

     

<御神木>

 門をくぐってすぐ右手にシイノ木の御神木があります。

    

<金王丸御影堂>

 門をくぐって右手から手前奥へ、途中2つの寄付者芳名巨碑の先に、「金王丸御影堂」があります。
 江戸名所図会に描かれていますが、当時は境外だったようです。
 金王丸自作と伝わる木像を安置しています。狛犬は宝暦9(1759)年銘です。

    

     

(説明板)
「金王丸御影堂
 御祭神 渋谷金王丸常光
 祭礼日 三月最終土曜日 御開帳
 由緒
 平安末期、渋谷重家夫妻が当八幡宮に授児祈願を続けたところ、八幡神の霊夢により永治元年(一一四一)八月十五日に誕生しました。
 金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
 また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(一一八五)十月二十三日夜、心ならずも義経の館に討入り勇ましい最期を遂げました。
 この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持した「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。」

  

<御嶽神社>

   

<玉造稲荷社>

   

<百白殿>

 扁額は「百白殿」とあります。神楽殿でしょう。

  

<渋谷城 砦の石>

 渋谷城の痕跡があります。

(説明板)
「渋谷城 砦の石
 この辺り一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館の跡で、東に鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に清水があるという好条件を備えていました。
 しかし、その館いわゆる渋谷城は大永四年(一五二四)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現品川区高輪付近)のとき、渋谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。」(注:高輪は品川区ではなく港区。)

     

<金王桜> 渋谷区天然記念物

 源頼朝の父・義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、
 鎌倉亀ケ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。

(説明板)
「渋谷三丁目5番12号 金王八幡宮
 区指定天然記念物 昭和五十七年二月十八日指定
 金王桜(こんのうざくら)
 長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は五?七枚ですが、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混って咲く大変珍しい桜です。また一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。
 この桜については、さまざまな伝承がありますが「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。
 また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生によって植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。
  渋谷区教育委員会」

     

<芭蕉句碑>

 「志はらくハ花のうへなる月夜可南」
 文化14(1817)年、太白堂(天野桃隣)門人山奴社中建立、影山大野椎園筆。

    

<社殿> 渋谷区文化財

 徳川家光が将軍の世継に決定し、家光の目付役・青山忠俊と乳母・春日局が慶長17(1612)年に寄進したといわれています。
 彫刻が随所に施され、虎(左)と獏(右)の彫刻も見事です。

    

    

宝物館>

 拝観無料の宝物館があります。
 鎌倉時代の神輿、金王丸の絵馬、獅子頭(左甚五郎作)、「大江山鬼退治之図」(渋谷区文化財)、「算額」(渋谷区文化財)などがあります。
 鎌倉時代の神輿は、「江戸時代初期に当八幡宮の氏子、青山百人組の御家人が鎌倉の八幡宮の大祭に参詣した折、鎌倉より担ぎ来て当八幡宮に納めたもの。」とのことで、
鶴岡八幡宮へ返さなくてよいのかなと思ったりします。

    

   


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