江戸幕府初期に三甚内と呼ばれる人物がいました。
盗賊の高坂(向坂)甚内、吉原遊郭の総名主となった庄司甚内(甚右衛門)、古着商の鳶沢甚内です。
三人とも元は忍者でしたが、主家滅亡により盗賊に転身しました。
<高坂(向坂)甚内>
高坂(向坂)甚内は武田忍者から主家滅亡により盗賊に転身します。
下総国向崎(現:茨城県守谷市)を拠点とする盗賊の大頭目となりました。
慶長18(1613)年に鳶沢甚内の手引きにより捕縛・処刑されます。
処刑された鳥越刑場に「陣内神社」が建てられ、病気平癒の神として祭られています。
(参考)「甚内神社」「甚内橋遺跡」
<庄司甚内(甚右衛門)>
小田原北条氏に仕えた風魔小太郎は主家滅亡により盗賊となり、
慶長8(1603)年に高坂(向坂)甚内の手引きにより捕縛・処刑後、その残党は、江戸の町で商売を始め成功を収めます。
元和4(1618)年に吉原遊郭を開業させた庄司甚内(甚右衛門)と、
現在の日本橋富沢町にその名を残す古着商となった鳶沢甚内です。
(参考)
「親父橋」(元吉原)
「末廣神社」(元吉原)
「庄司甚右衛門の碑」(吉原弁財天)
「庄司甚右衛門墓」(雲光院)
「庄司甚右衛門過去帳」(旧正憶院)
<鳶沢甚内>
鳶沢甚内は、小田原北条氏の家臣でしたが、小田原落城ののち、盗賊となります。
鳶沢甚内は捕えられますが、徳川家康から幕府の盗賊取締りに協力することを条件に助命され、
葭の生える土地(現在の富沢町)を与えられ、生計のために古着屋の元締めを許されます。
手下を古着屋として周辺に住まわせ、鳶沢町と呼ばれます。
鳶沢町は大変賑わい、やがて「鳶」を「富」に改め富沢町となりました。
盗賊は、江戸時代は高価だった衣類を盗み、富沢町の古着屋に売りました。
鳶沢甚内は、古着屋の元締めで、周辺に住まわせた元盗賊の手下も古着屋です。
盗賊の情報は古着屋ネットワークで元締めである鳶沢甚内に集められ、
鳶沢甚内は、小田原北条氏の忍者から徳川家康の忍者として、江戸幕府の盗賊取り締まりに協力しました。
幕府は鳶沢甚内の協力によって、慶長18(1613)年に盗賊の高坂甚内を捕縛し、処刑しています。
「二人連れの古着買」(江戸の白浪 (江戸叢書) 昭和8年 国立国会図書館蔵)
鳶沢甚内は、手下の元盗賊に、2人連れで古着買をさせて、盗賊の居場所の情報を調べさせました。
一人は布の袋を肩にかけ、一人が「古着」と言えば、一人が「買おう」と言って、
町屋の軒下を左右に分かれて通り、家の内の様子を探りました。
世の中が落ち着くにつれて、二人連れの古着買の巡回も自然となくなりました。
「江戸切絵図」
「富沢町」が見えます。
江戸時代の織物は、手織りで、大変な手間と時間がかかり、高価で希少なものでした。
このため、江戸庶民は新品の衣類は手を出せず、古着屋で衣類を購入していました。
古着は修繕しながら使い、子どもがいれば仕立て直して子どもの着物にしました。
最後は下駄の鼻緒や雑巾となり、燃やした灰は灰買いが買い取りました。
アルカリ性の灰は、酸性の関東ローム層を中和するのに重宝されました。
富沢町の古着屋は品揃えが豊富でした。
越後屋呉服店が売れ残った商品を富沢町に卸すと、他の呉服店もこれにならい、
富沢町の古着屋は扱う商品が高級化していきました。
「柳原土手」
寛政6(1794)年に柳原土手が火除地となり、
すぐに取り除ける葦簀張の下級の古着を扱う古着屋が集まりました(こちらで記載)。
高級の商品を扱うようになった富沢町に対し、柳原土手は、下級の商品を扱う古着屋として賑わいました。
「江戸名所図会 柳原堤」
古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。
「竹馬古着屋」
行商「竹馬古着屋」による古着の販売も行われていました。
「竹馬古着屋」(守貞謾稿巻6 国立国会図書館蔵)
挿絵には、
「竹具の四足なるを担う 故に竹馬と云
古衣服及び古衣を解き分て 衿あるいは裡其他諸用の小物を売る
専ら小戸を巡る也」とあります。
竹馬という竹で組んだ四脚の運搬具に衣類や布を下げ、
天秤棒の両端にさげて担いで売った棒手振りです。
「湯灌場買い」
湯灌場(ゆかんば:死体を清めるための小屋)に出向いて、
故人が着ていた着物を遺族から買い取っていたのが湯灌場買いです。
「赤門寺のボロ市」(勝専寺)
参勤交代の大名や旅人が江戸入りする千住で正装に着替え、
捨てられた衣服や足袋が洗って売られたのがはじまりといわれます。
ボロ市は、二七の市といって二と七のつく日に行われていました。(こちらで記載)
日本橋富沢町の鎮守として祀られているのが「富沢稲荷神社」です。
創建年代は不詳で、かつては巴熊稲荷神社と称していましたが、昭和25(1950)年に元弥生町・新大阪町・元浜町の稲荷社が合祀され、
現在の「富澤稲荷神社」に改称されました。