Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 堀留川

  ○ 伊勢町堀(西堀留川)跡
  ○ 富士銀行創業の地
  ○ 東堀留川
    ・小網町児童遊園
    ・小網神社
    ・小網町児童遊園〜親父橋
    ・親父橋
    ・親父橋〜堀留児童公園
    ・堀留児童公園
    ・日本橋保健センター
    ・船着石積
    ・日本橋消防署堀留出張所


○伊勢町堀(西堀留川)跡 中央区日本橋小舟町1-1

 小舟町交差点にある説明板です。小舟町記念会館が取り壊し中です。
 この場所は、西堀留川の荒布橋跡です。
 慶長10(1605)年の旧石神井川の水路の付け替えにより、上流からの流れを失った河口部が、湊として整備され、
 堀江町入堀と伊勢町堀ができました。
 (「郷土室だより第160号」に詳しく記述されています。)

 永井荷風が堀割の壮観と賞しています。
『日和下駄』の内「第六 水 附渡船」(永井荷風 大正3年)
「日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側には荒布橋つづいて思案橋、片側には鎧橋を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。」

   

(説明板)
「伊勢町堀(西堀留川)跡
  所在地
  中央区日本橋本町一丁目六〜八番・日本橋本町二丁目六番
     日本橋小舟町一〜四番
     日本橋室町二丁目三番・日本橋本町二丁目四〜六番
 江戸時代初期から昭和初期まで、日本橋本町一丁目と日本橋小舟町の境界沿いには掘割(明治中期頃まで「伊勢町堀」と称し、後に「西堀留川」と名称変更)がありました。
 この掘割は、日本橋川から北西に入り込み、旧堀留町一丁目(現在の日本橋本町二丁目7番)の手前で西へと屈曲して旧室町三丁目(現在の日本橋室町二丁目3番)の前で留まる“かぎの手状の入堀”でした。日本橋地域の中心に位置するこの船入堀には、穀物や乾物を中心に全国各地から物資が運ばれ、河岸地は荷揚げ場として大いに利用されていました。
 米蔵が建ち並んでいた堀の西岸は、江戸に輸送されてきた廻米の陸揚げ地であったことから「米河岸」と呼ばれ、鰹節や塩干肴の問屋が多かった小舟町に面する東側は、「小舟河岸」と呼ばれていました。さらに、西に折れた入堀の河岸地は、周辺に塩問屋があったことから「塩河岸」(明治十年、北岸は「北塩河岸」、南岸は「南塩河岸」の名称となる)と呼ばれていました。
 江戸時代以来、大量の回漕物資が集積・荷揚げされたこの掘割は、明治十九年(一八八六)に西側に屈曲した入堀部分が埋め立てられ、昭和三年(一九二八)には関東大震災後の区画整理事業で残りの入堀が埋め立てられてその姿を消しました。
 当地の様子を描いた『江戸名所図会』には、舟運と荷揚げの便が図られていた頃の挿絵があり、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(部分)
  平成二十六年五月  中央区教育委員会」

    
 

「江戸切絵図」

 江戸切絵図から、西堀留川と東堀留川部分の抜粋です。

  
 

「江戸名所図会 伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」

 荒布橋から北へ、カギノテに曲がる伊勢町堀(西堀留川)部分が描かれています。
 米河岸、塩河岸ともに蔵がぎっしり立ち並んでいます。

  
 

「東京開化三十六景 江戸橋とあらめ橋」(三代広重)

 左に「江戸橋」、右に「あらめ橋」が描かれています。
 「あらめ橋」の奥には、蔵がびっしりと並んでいます。

  
 

「東京名所繁榮之内江戸橋之圖」(梅堂國政 明治8(1875)年)

 手前の橋が「江戸橋」、左手の橋が「荒布橋」、奥に見える橋が「鎧ばし」です。
 2枚目は「荒布橋」部分の拡大です。

   
 

「小網町河岸」(日本之名勝 明治33年 国立国会図書館蔵)

 江戸橋から見た「小網町河岸」です。

  


富士銀行創業の地 中央区日本橋小舟町8-1

 みずほ銀行小舟町支店の右側の植込みに「ヒューリック小舟町ビル(旧小舟町富士プラザ)」があり、
 その左手に「富士銀行創業の地」碑が建っています。
 元治元(1864)年、安田善次郎は、日本橋人形町通り(現在の中央区堀留町)に乾物兼両替店「安田屋」を開業しました。
 2年後の慶応2(1866)年、日本橋小舟町に移って両替専門「安田商店」と改称。
 明治13(1880)年、安田商店を合本安田銀行に改組し銀行業が始まりました。

(碑文)
 「富士銀行創業の地
  明治13年1月1日(1880年)
  合本安田銀行(現在の富士銀行)は
  この地で開業いたしました
  平成8年6月 店舗新築を記念して
  富士銀行 頭取 橋本徹」

    
 

「安田善次郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 天保9年10月9日〜大正10年9月28日(1838年11月25日〜1921年9月28日)

    
 

「安田銀行本店」(日本之名勝 明治33年 国立国会図書館蔵)

 プレートの銅版の元となった写真と思います。

  

(参考)
 「旧安田庭園」
 「安田善次郎墓」(護国寺)


東堀留川】

 明治16(1883)年、堀江町入堀と呼ばれていた川筋に、東堀留川と正式名称がつきました。
 堀江町入堀(東堀留川)には、思案橋、親父橋(一時親慈橋に改称)、萬橋(境橋→和国橋→萬橋)が架かっていました。

    
 

小網町児童遊園 中央区日本橋小網町9-1及び小網町19

 小網町児童遊園は、東堀留川の日本橋川への接続部分で、思案橋跡に当たります。
 思案橋は、吉原(遊郭)に行くか芝居町(劇場)に行くか迷って思案したことから、
 思案橋と呼ばれるようになったと言われています。

    
 

<高潮防潮扉>

 高潮や津波の下水道管内への逆流を防ぐ目的で、下水道の吐口に高潮防潮扉が設置されています。

「東京都下水道局高潮防潮扉
 扉NO.36
 設置場所 中央区日本橋小網町9」

    

 ※近くの「桃乳舎」(日本橋小網町)は、休業中から2023年2月に閉店となりました。


小網神社 中央区日本橋小網町16-23

 小網神社は、埋め立てられた東堀留川の河岸にありました。
 いつも行列している超人気の神社です。Google のクチコミもあり得ないほど多いです。

   



○東堀留川(小網町児童遊園〜親父橋 小網町17と16の間)

(小網町児童遊園〜) 西へカーブしていきます。

     

(小網町児童遊園を振り返ったところ)

  

(〜親父橋)
 交差点が親父橋に当ります。

    



親父橋

 「親父橋」は、「親父」と呼ばれていた遊郭惣名主庄司甚右衛門が元吉原への通路として元和3(1617)年に架橋しました。
 明治維新後には「親慈橋」という名称も使われていますが、大正14(1925)年9月の再建時には、再び「親父橋」となっています。
 昭和24(1949)年に埋立てにより消滅しています。

「江戸名所図会 堺町 葺屋町 劇場」

 劇場(しばい)の賑わいが描かれています。
 手前に流れているのが東堀留川で、「親父橋」が架かっています。

   
 

「新添江戸之圖」(国立国会図書館蔵)

 明暦の大火の直前に描かれた江戸之図に、吉原遊郭が描かれています。
 親父橋が見えます。

  
 

「江戸名所百人美女 よし町」(豊国・国久)

 こま絵には、親父橋の角にあった版元の地本問屋「山本屋平吉」(栄久堂)の店舗が描かれています。紅屋も兼業していました。

   
 

<千疋屋と親父橋>

 天保4(1834)年創業の千疋屋の起源は、親父橋にあります。
 武蔵の国埼玉郡千疋村(現越谷市)で大島流の槍術の道場を開く侍であった創業者の大島弁蔵は、
 生計を立てるために水菓子(桃、スイカ、まくわ瓜や野菜)を水路を利用して親父橋界隈に売りに来ていて
 「水菓子安うり処」の看板を掲げ親父橋の袂に店を構えました。
 

「親父橋」(建築写真類聚 大正15年)

    
 

○親父橋パネル 中央区日本橋小網町16-14 堺屋薬局

 「親父橋」の説明パネルが堺屋薬局の店横にあります。

     

(説明板)
「親父橋
 かつて当店のとなりに親父橋とよばれる橋があった。
 親父橋の北東には芝居町があって堺町には中村座、葺屋町には市村座が櫓を掲げており、多少の変遷はあったものの江戸時代初期から天保の改革によって浅草聖天町に移されるまでのほぼ二百年間、ことのほかの繁昌を続けていた。
 また親父橋と荒布橋(あらめばしー江戸橋付近)の間の照降町(てるふりちょう)には傘屋と下駄屋が軒を連ねていたと伝えられ、昔の版画からも当時の賑わいを偲ぶことができる。
 初代堺屋武助二百回忌追善の為、これを記す。
 平成二十七年六月一日 九代目堺屋武助」
「「親父橋より、よし町を望む」山本松谷画より 明治期の親父橋と堺屋」

    


親父橋〜堀留児童公園 日本橋小船町15と日本橋人形町3-1の間)

 正面に日本橋保健センターがそびえ、その手前の堀留児童公園で突き当ります。

   


堀留児童公園 中央区日本橋堀留町1-1-16

 改修工事中です(令和4年10月14日〜令和5年11月30日)。
 防災倉庫の脇に、災害用井戸があります。

     

 萬橋(境橋→和国橋→萬橋)が架かっていた場所です。

  


○中央区日本橋保健センター 中央区日本橋堀留町1-1-1

<ピロティ>

 日本橋保健センターは東堀留川の跡に建っています。
 ピロティが川筋に当ります。

   
 

<タイル壁画>

 ピロティに3枚のタイル壁画があります。サイン等は見当たらずどこの橋だかわかりません。

    
 

<彫刻>

 日本橋保健センター入口左右に「母像」と「母子像」の彫刻があります。

    


船着石積 中央区日本橋小舟町14-13 スーパーホテル

 日本橋保健センターの隣にあるスーパーホテルのエントランス植え込みに、
 ホテル建設中に見つかった東堀留川の船着石積の一部があります。

    

(説明板)
「日本橋小舟町
●町の由来
 慶長8年(1603年)の町割の時は下舟町といいましたが、享保5年(1720年)に西の大船町に対して小舟町としました。
 江戸初期からの町で、江戸の湊口の物資輸送に利用され、小舟町西の河岸を小舟河岸とか鰹河岸と呼び、江戸湊の重要な荷揚場的役割を果していたようです。

●堀留川の埋立て
 西堀留川は関東大震災後の区画整理で埋立てられ、残っていた東堀留川も、戦後には埋立てられ、江戸以来いろいろの話題を提供してきた思案橋なども撤去され街並みは大きく変わりました。この地は当時の東堀留橋川の川のたもとにあたり、川は隣地の日本橋保健センターから南側の公園にかけて思案橋まで続いており、江戸時代には東堀留川はさらに北に伸び、この辺りには和國橋が架っておりました。ここにおかれている石は当ホテルの工事中に地中より出てきた船着石積の一部です。
水運で栄えた当時の面影が偲ばれます。」(誤字は訂正しました)

    

  


日本橋消防署堀留出張所 中央区日本橋堀留町1-2-6

(日本橋保健センター〜日本橋消防署堀留出張所 日本橋小舟町13と日本橋堀留町1-2の間)

   

 日本橋消防署堀留出張所

   

 東堀留川は、日本橋消防署堀留出張所前で「堀留(堀の突き当り)」となります。
 「日本橋消防署堀留出張所」がある場所に、江戸時代には「火の見櫓」がありました。
 「江戸名所図会 堀留」に、火の見櫓と、貯木場と店前に立てかけられた材木が見えます。

   


戻る