○ 五之橋
・五之橋
・本所猿江亀戸村辺繪図
・伊藤左千夫歌碑
・旧千葉街道道標
・寛永通宝ベンチ
・三代・歌川豊国(五渡亭国貞)生誕の地・浮世絵ギャラリー
暗渠となっている竪川に架かる明治通りの「五之橋」です。
<五の橋親柱>
<五之橋> 江東区亀戸6-1
五之橋北詰に五之橋の説明プレート(逆三角形)があります。
堅川は、万治2(1659)年に本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、
大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路とのことです。
(プレート文)
「五之橋
五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659年)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。
堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。
御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684年)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。
元禄8年(1695年)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
その後、明治12年(1879年)に本橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。
震災復興により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。
戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年再度架け替えられた。
親柱は震災復興記念として現在も残されている。
亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定された。
平成4年3月」
<石のベンチにプレート> 江東区亀戸6-1
石のベンチに3つのプレートがあります。
嘉永4(1851)年の地図が掲示されています。
〇の所が現在の五之橋です。「五ツ目渡シ場」とあります。
右手に「五百羅漢寺」があります。小名木川河口に「中川御番所」とあります。
<江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂>
「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」の抜粋を掲示しています。
「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」から、プレート掲示部分の抜粋です。
「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」(3枚連結の全体)
伊藤左千夫の短歌のプレートがあります。
「竪川の野菊の宿は初芽すぎ二の芽摘むべく群れ生ひにけり 伊藤左千夫」
伊藤左千夫は、乳業店で働いた後、明治22(1889)年独立して、錦糸町に牛舎を建て牛乳の製造販売を始めています。
「左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)」「本所茅場町の牛舎」(錦糸町駅前掲示より)
「五之橋」北詰に標柱「旧千葉街道」があります。
(標柱)
「旧千葉街道
旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより現在の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。
昭和三十三年十月一日 江東区第十七号」
<亀戸大根銘鈑> 江東区亀戸6-1
「亀」の形をした「亀の字」と「大根」の形をした「戸の字」を組み合わせた亀戸大根の銘鈑が、街路灯の柱にあります。
石のベンチの背もたれに「寛永通宝」のオブジェが埋め込まれています。
ベンチの反対側には、「寛永通宝」の裏面が埋め込まれています。
江戸時代、今の亀戸3丁目にあった「銭座」では「寛永通宝」が鋳造されていました。
これにちなんで寛永通宝をかたどったベンチでしょう。ちなみに五渡亭園の噴水も寛永通宝をかたどっています。
<大田区の電柱> 江東区亀戸1-27
「車は急に止まれない 交通安全宣言 大田区」
なぜか電柱に大田区の掲示です。
<五之橋南詰公衆トイレ> 江東区大島2-31-1
トイレの壁には「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国)
「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国 国立国会図書館蔵)
五の橋を歩いて見るギャラリーです。
五渡亭国貞の役者絵と美人画が14枚掲示されています。