○ 豊島橋
○ 足立区立宮城ゆうゆう公園
・バス停「豊島橋」
・五色桜大橋田中賞受賞記念碑
・展望台
・ゆうゆう風車
○ 荒川土手右岸
・案内板「五色桜大橋周辺」
・阿弥陀の渡船場跡
・酸曹の渡し
豊島橋の補修工事が2023年1月に完了し、綺麗になりました。
豊島橋から隅田川左岸堤防を上流へ進み、足立区立宮城ゆうゆう公園に向かいます。
ここは、岩淵水門で分かれた荒川と隅田川が最接近している場所です(天狗の鼻)。
北区と足立区の境界は、隅田川の旧流路のため、隅田川を越えて荒川の左岸近くまで食い込んでいます。
このため「足立区立宮城ゆうゆう公園」の大部分は、北区豊島5丁目に所在しています。
北区と足立区で協議の上、「足立区宮城ゆうゆう公園」は、足立区が設置・管理しています。
初代の豊島橋は、天狗の鼻に架かっていて、現在の豊島橋は隅田川下流に架け替えられました。
バス停留所「豊島橋」の名前はそのまま残りました。
宮城ゆうゆう公園展望休憩広場に、五色桜大橋の橋名由来説明板と、田中賞受賞記念碑があります。
(説明板)
「五色桜大橋 ごしきざくらおおはし
橋名の由来
明治から昭和の初期にかけて、足立区江北から堀之内・鹿浜一帯は「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所であり、花見どきは多くの人々でにぎわいました。
荒川のこの場所に、首都高速中央環状線の橋が架かりました。この橋はダブルデッキ・ニールセン・ローゼ橋という世界で初めての形式です。
ここに、五色桜をより広めたいとの地域住民の願いにより、橋の名前が「五色桜大橋(ごしきさくらおおはし)」となりました。
平成14年10月5日 足立区」
「田中賞 2003 土木学会」
(プレート文)
「五色桜大橋 田中賞受賞記念碑
「田中賞」とは、関東大震災の首都の復興に際し、隅田川に架かる永代橋や清洲橋など、市民にも馴染みの深い数々の名橋を生み出した故・田中豊博士の功績を偲び、昭和41年に「土木学会」に発足した極めて名誉ある賞で、橋梁の計画・設計・施行・美観などの面において優れた特色を有すると認められた作品に与えられるものです。
「五色桜大橋」は、計画の初期段階から幅広い景観検討を実施し、ドライバーや外観に対する開放感を得るために、世界でも珍しい上横構を省略した構造にしています。また、潮の干満を利用した一括架設を行い、荒川の航行船舶への影響を最小限に抑えるなど、施工面で工夫した点や住民に親しまれる地域と一体となった美しい橋を創出した点が認められ、田中賞を受賞しました。 首都高速道路公団」
展望台(トイレへ移設)と、展望台から荒川方向の光景と隅田川方向の光景です。
「ゆうゆう風車」が設置されています。
道路がトンネルとなり付け替えられる前は、バス停「豊島橋」がここにありました。
「ゆうゆう風車 平成21年8月 竣工 足立区」」
荒川右岸土手上に案内板「五色桜大橋周辺」が設置されています。
「ここは北区豊島5丁目 荒川河口より17.2km」
説明項目
「@阿弥陀の渡船場跡」
「◆荒川に係わる数字」
「◆「水塚」の話し」
「◆荒川と新田開発」
説明板に掲載されている明治44年発行の地図に「酸曹の渡し」が記載されています。
当時、関東酸曹株式会社の従業員が通勤のために利用していた渡しと思われます。
(参考)
関東酸曹株式会社は、明治30(1897)年に、現「豊島五丁目団地」の地に「王子工場」を完成させ、硫酸と曹達の生産を開始しました。
大正12(1923)年、「関東酸曹」は「大日本人造肥料」に合併され、昭和12(1937)年には「日産化学工業」へと改称されました。
「日産化学工業王子工場」は、昭和44(1869)年に千葉県「袖ケ浦工場」へ移転、跡地に「豊島五丁目団地」が建設されました。
<隅田川テラス(左岸)> 足立区宮城2丁目〜北区豊島5丁目〜足立区新田3丁目
下流→上流(新豊橋)
上流→下流(豊島橋)