荒川土手に説明板「阿弥陀の渡船場跡」があります。
<隅田川「天狗の鼻」>
荒川放水路開削にあたり、隅田川の流路は変更されており、昔の天狗の鼻ほどは湾曲はしていません。
<阿弥陀の渡船場跡>
(説明板)
「阿弥陀の渡船場跡 豊島五丁目地先
ここにはかって豊島村から沼田村(足立区)への渡船場がありました。この渡船場は、豊島の渡・六阿弥陀の渡・中の渡・原の渡とも呼ばれていました。
旧荒川(現隅田川)の流路は、現在の荒川まで大きく湾曲していて、この地形を天狗の鼻と呼んでいました。渡船場は湾曲の頂点より少し下流に位置していました。
豊島清光の造仏伝承にまつわる六阿弥陀詣が、江戸時代中期以降に盛んに行われるようになりました。この渡船場は、六阿弥陀詣の一番西福寺(北区豊島二ー十四ー一)から二番延命寺(江北橋北詰辺にありましたが、明治九年恵明寺に合併されました)への参詣路にあたっていたため、六阿弥陀詣の行われる春秋の彼岸の時には参詣客でとくに賑わいをみせました。文化十一年(一八一四)頃に当地を訪れた十方庵敬順は、この渡船場付近の川端の様子を、「荒川の長流にそひて、左右の渚の景望はいふもさらに、弓手は渺茫たる耕地を見わたし、心眼ともに打はれて、実に賞すべきの景地たり」と記し、こうした土地に住んで花鳥風月になぐさめられて暮らしたならば、寿命も延びるであろうと賞賛しています。
明治四十四年(一九一一)から荒川の河川改修工事が始まり、次いでこの付帯事業として大正十二年(一九二三)四月荒川放水路(現荒川)に江北橋が、同十四年荒川(現隅田川)に豊島橋が架橋され、この渡船場も姿を消していきました。
平成十八年一月 東京都北区教育委員会」
「江戸切絵図」
豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。
渡場の沼田村の左手に「六アミタ二番延命寺」とあります。
「東都歳事記 彼岸六阿弥陀参」(国立国会図書館蔵)
東都歳事記に六阿弥陀参の全体図が描かれており、二番延命院部分の抜粋です。
荒川(隅田川)を渡る渡し船が見えます。
「東都遊覧年中行事」(春陽堂 昭和2年出版より 国立国会図書館蔵)
六阿弥陀道の行程が描かれており、「としまのわたし」部分の抜粋です。
「ひがん中はさんけいあまたある故、道をしらざる人も参詣の人に随ひゆけば道にまどふことなし。」との記載があり、
彼岸は参詣者が群れをなしていたことがうかがえます。
厩の渡しは花見客の人出でよく転覆するので、「三途の渡し」とも呼ばれていましたが、ここは転覆事故はどうだったのでしょうかね。
反時計回りに六阿弥陀を詣でる場合には、「沼田の渡し」と呼ばれていたようです。
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
六阿弥陀の渡し「沼田渡」が描かれている部分の抜粋です。
沼田から渡る場合は、「沼田の渡し」の呼称が一般的なようです。