○ 愛宕下大名小路
○ 塩釜公園
○ 安産守護の石幢
○ 鹽竈神社
○ 新橋赤レンガ通り
○ 日本の野球チーム発祥地新橋
(参考)愛宕下通り/愛宕下藪通り
愛宕下には、大名屋敷が立ち並んでいました。
このため、大名屋敷を南北に通る道は、丸の内の大名小路と区別するため、
大名小路に愛宕下の冠名をつけて愛宕下大名小路と呼ばれました(丸の内の大名小路はこちらで記載)。
明治となり大名小路は赤レンガ通りとなりました(こちらで記載)。
仙台藩中屋敷内には邸内社の塩竃神社があり一般にも参詣を許しており、
明治維新となり藩屋敷はなくなっても塩竈神社は存続しました(こちらで記載)。
有楽町の有楽稲荷神社(こちらで記載)や虎の門の金刀比羅宮(こちらで記載)も元は邸内社でした。
新橋赤レンガ通り
「江戸切絵図」
愛宕下大名小路とその周辺の抜粋です。
「町名由来板 愛宕下町」 港区新橋5-19-7に設置
「愛宕下町(あたごしたちょう)
里俗に愛宕下と呼ばれていたので、これを町名としたと伝えられています。明治五年(1872)、酒井下野守、
大鳥備後守、水野山城守の屋敷を合併して愛宕下町一丁目、苗木藩遠山美濃守と岡山藩池田氏の屋敷ほか武家地を合併して愛宕下町二丁目、
下妻藩井上氏の屋敷ほか武家地を合併して愛宕下町三丁目、 仙台藩、小諸藩、柳生藩の屋敷を合併して愛宕下町四丁目としました。」
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
大正元年に東京市が発行した地図から、愛宕下部分の抜粋です。
愛宕下町等が記載されています。
塩釜公園は、江戸時代には仙台藩の中屋敷内にあり、鹽竈神社の境内になっていた場所です。
<塩釜公園の沿革>
(説明石碑)
「塩釜公園の沿革
江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、鹽竃(しおかま)神社の境内になっていました。
この神社は、はじめ元禄八年(一六九五年)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の鹽竃神社本社から分霊を迎えて祀られていたものが、安政三年(一八五六年)に移転され、邸内社として私に祀っていました。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。
明治になり、大名屋敷がなくなってからも神社は存続しましたが、大正十二年の関東大震災の後、災害時の避難場所の確保と町民の安息や子供の遊び場もかねて、昭和五年に東京で唯一の町立鹽竃公園として開園しました。
その後昭和四十六年、港区が区立塩釜公園として整備しましたが、敷地拡張に伴い、この度、全面改造を行いました。
昭和五十九年一二月 東京都港区」
<伊達騒動と「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」>
(説明板)
「伊達騒動と「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」
江戸時代、塩釜公園および塩釜神社のあるこの場所は、仙台藩番主伊達家の中屋敷でした。(詳しくは公園内園名板横の「塩釜公園の沿革サイン」をご覧ください)
この塩釜神社は、はじめ元禄八年(1695)に第4代藩主伊達綱村によって東新橋にあった上屋敷へ分霊を勧請されたといいます。網村は伊達政宗の曾孫にあたる人物で、領内の防風林設置や運河開発、産業振興、儒学を奨励し藩史の編纂に尽力するなど「仙台藩中興の英主」と讃えられました。
しかし、綱村は万治二年(1660)、わずか2歳で藩主となり、寛文十一年(1671)には伊達騒動(寛文事件)が勃発して改易の危機に立たされるなど平坦な人生ではなかったようです。
伊達騒動(寛文事件)
わずか2歳の綱村には、大叔父にあたる一関藩主伊達兵部宗勝(伊達兵部派)と、叔父の岩沼藩主田村宗良が後見人となりましたが、宗勝が実権を掌握して家老の原田甲斐宗輔らと藩権力の集権化を行うと、伊達氏一門(伊達安芸派)と対立します。そんな中、一門の伊達安芸宗重と宗勝の甥伊達式部宗倫との所領紛争が起き、伊達安芸は幕府に一件を上訴します。
寛文十一年(1671)、評定を行うため、関係者が大老酒井忠清邸に集められますが、原田甲斐はその場で伊達安芸を斬り殺してしまいます。しかし原田甲斐も安芸派の柴田外記朝意らに討ち取られ、柴田外記も斬りあいの傷が元で死亡します。
この事件の処理として、伊達兵部派、伊達安芸派ともに処罰が下されましたが、綱村自信は若年だったことからお咎めなしとされ、改易は免れました。
「伽羅先代萩」はこの伊達騒動を題材に歌舞伎や人形浄瑠璃で演じられたものです。」
<芝地区町名由来板>
(説明板)
「旧町名由来板めぐり20-8 芝地区町名由来板
愛宕下町(あたごしたちょう)
里俗に愛宕下と呼ばれていたので、これを町名としたと伝えられています。明治五年(1872)、酒井下野守、
大鳥備後守、水野山城守の屋敷を合併して愛宕下町一丁目、苗木藩遠山美濃守と岡山藩池田氏の屋敷ほか武家地を合併して愛宕下町二丁目、
下妻藩井上氏の屋敷ほか武家地を合併して愛宕下町三丁目、 仙台藩、小諸藩、柳生藩の屋敷を合併して愛宕下町四丁目としました。
露月町(ろげつちょう)
むかしは日比谷門内にあり、当時は老月村と称したようです。徳川氏が江戸城を修築するにあたり、民家をこの地に移して市街地を創立して老月町と称しましたが、
後に露月町と改めたと伝えられています。一説には、露月は天正年間(1573〜1592)
の里老の名であるとも言われます。 明治三年(1870年)、付近の土地に小石川金杉町と堺町の住民が移り、露月町新地としましたが、明治九年(1876)、これを露月町に合併しました。
柴井町(しばいちょう)
町の起立について詳細は不明ですが、一説には、元和年間(1615〜1624)、この地の芝原ではじめて劇が演じられ、寛永年間(1624〜1644)、芝居小屋は中橋に移り、その跡に開かれた市街地が芝居町で、後に柴井町と改めたといいます。
また一説には、「鎌倉河岸の小芝居が残らず芝芝居に移された」、「芝居町の芝居小屋から出火して一同この地を引き払った。後、柴井町と改められた」とも伝えられています。
塩釜公園 江戸時代に仙台藩伊達家の所有だったこの場所は、関東大震災後に愛宕下町会に寄付され昭和5年に町立公園として開園しました。その後昭和47年に区立公園になりました。
芝地区総合支所
ここは、港区新橋5-19-7 塩釜公園です。」
「新撰東京名所図絵 仙臺屋敷内塩竃神社之図」を掲示
「江戸切絵図」
愛宕下大名小路部分の抜粋です。
「松平陸奥守」と記された仙台藩中屋敷、上屋敷が見えます。
町名「露月町」「柴井町」と「愛宕ノ下大名小路」が記されています。
「烏森稲荷」と「日比谷稲荷」も見えます。
塩釜公園の角にある「新橋五、六丁目町会会館」の脇に、「安産守護の石幢」があります。
○鹽竈神社 港区新橋5-19-7 仙台市HP
江戸時代、大名は江戸屋敷に国元より神社の分霊を勧請して、屋敷内に社を設けていました。
鹽竃神社は、元禄8(1695)年に仙台藩四代藩主伊達綱村が、領内(塩釜市)にある鹽竃神社から分霊を勧請して伊達家上屋敷内に創建、
安政3(1856)年に現在地にあった伊達藩中屋敷に遷座したといいます。
邸内社として祀られていましたが、庶民にも参拝が許されるようになり、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。
昭和5(1930)年に伊達家当主伊達興宗伯爵は、地元町内会「愛宕下町会」に土地を寄付し、
町会が所有・管理する東京唯一の公園「塩釜公園」として開園し、昭和47(1972)年に港区に移管されています。
塩釜公園から参道 社殿から参道
<社号標>
昭和12(1937)年の奉納です。
(碑表)「鹽竈神社」
(碑陰)「奉納 平成十二年十月吉日
高橋秀典
森恭仁子」
<手水舎>
<一之鳥居>
平成12(2000)年10月の奉納です。
<狛犬>
大正15(1940)年9月、鹽竃講による奉納です。
こちらは先代の狛犬でしょうか?かなり風化してとろけています。
<駒犬奉納碑>
激しく破損し3分の2以上が失われていますが「奉納駒犬壹封 塩竃講」とあります。
<ニ之鳥居>
異形の鳥居です。
<天水桶>
安政3(1856)年の江戸深川の鋳物師、釜屋七右エ門による製作の天水桶です。
「安政三丙辰年 九月吉日」
隣の四角い天水桶には「百度」と陽刻されています。
百度石(まれに手水鉢)ではなく天水桶に百度とあるのは初見です。
<御宝前手水鉢>
御宝前と刻まれた手水鉢は、天水桶と同じ時期に奉納されています。
「安政三丙辰年 九月吉日」
<手水鉢>
左の手水鉢は紀年等は確認できませんでした。
右の手水鉢は「攝津國屋善藏」による慶応3(1867)年11月の奉納です。
<稲荷神社>
「稲荷神社秋葉神社縁起」
昭和5(1930)年建立の稲荷神社及び秋葉神社の縁起碑です。
鹽釜講による奉納の神狐です。
稲荷神社の石祠には、社殿が建っていた時と思われる扁額が置かれています。
稲荷神社の奥に大黒像と恵比寿像がおわします。
<御神木>
<拝殿/本殿>
鹽竈神社の社殿は、昭和20(1945)年の空襲により焼失し、戦後、再建されています。
拝殿の奥に、どうにか本殿が見えます。
<神社境内図>
神社境内図が掲示されていますが、東京都神社庁が発行している神社のイメージイラストです。
それぞれの神社境内とは異なります。
江戸時代は、大名屋敷が密集しており、「愛宕下ノ大名小路」だった通りです。
歩道には赤いレンガタイルが敷き詰められ、街灯は汽車の車輪をかたどっています。
赤レンガ通りに「赤レンガ通り地図」の案内板が建っており、
「日本の野球チーム発祥地新橋」の説明があります。
(案内板)
「日本の野球チーム発祥地新橋
新橋は、日本の鉄道発祥地で有名であるが、この鉄道発祥地で日本の野球チームが生れたといわれている。
日本の野球元年は、明治五年(1872)アメリカ人ホーレス・ウィルソンが生徒に野球を教えたのが初めてである。
明治十一年アメリカ留学から帰った鉄道技師平岡煕が、旧新橋駅構内の荒れ地を地ならしし、駅員や鉄道局職員に野球を紹介し、日本発の野球チーム「新橋倶楽部」を結成、明治十五年日本で最初の野球試合を行ったとされている。」
(参考)平岡煕(安政3(1856)年〜昭和9(1934)年)
平岡煕は、鉄道技師から実業家、日本野球の創始者で野球殿堂入り第1号。
鉄道技師から車両製造会社「平岡工場」を興して巨万の富を築きました。
明治4(1871)年渡米し、汽車製造会社に勤めながら鉄道技術を学びました。
明治9(1876)年に帰国の際、野球道具を日本に初めて持ち帰りました。
明治11(1878)年に日本で最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成、
明治15(1882)年に日本で最初の野球試合を行ったとされています。
昭和34(1959)年に正力松太郎氏とともに野球殿堂入り第1号となりました。
(「港区ゆかりの人物データベース
平岡煕」(港区)及び現地案内板を参照しました。)