Discover 江戸旧蹟を歩く

 ○亀戸浅間神社
 ○亀戸の富士塚



○亀戸の富士塚 江東区亀戸9-15-1

 元佐倉道道標から古道を進むと、亀戸浅間(せんげん)公園に亀戸の富士塚があります。
 「笄塚」を転用して「富士塚」とし、富士塚の上に平成9年まで社殿が鎮座、平成10年に現在地へ移転しています。

   
 

「日本武尊(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)由来の笄塚(こうがいづか)へのご案内」

  
 

<石造鳥居>

 「有形文化財(建造物)
  石造鳥居 
  大正七年(一九一八)在銘」

    
 

<日本武尊・弟橘姫由来の笄塚>

(説明板)

「日本武尊・弟橘姫由来の笄塚」
 由来
 日本で最初に作られた歴史書である「古事記」には、日本武尊とその后である弟橘媛の美しくも儚いお話が載せられています。
 今から約二千年も昔、父景行天皇の命を受け、日本武尊は東国を平定するべく、船に乗って走水(現在の神奈川県横須賀市)あたりを通過する時、土地の神様が波を立たせ、通行の邪魔をしたのです。進退窮まった一行、その時弟橘媛が「私があなたさまの身代りとなって海に入りましょう。あなたさまはお父さまの命令を遂行して、無事に都にお戻り下さい。」と自分の身を海に投げたのです。身を投じる際、次のような歌を詠みました。
  さねさし さがむ(相模)のおの(小野)に も(燃)ゆるひ(火)の
  ほなか(火中)にた(立)ちて と(問)ひしきみ(君)はも
 弟橘媛が、相模国(現在の神奈川県)で火に囲まれた時に、日本武尊が身の心配をしてくれたという内容で、死ぬ間際まで夫に対する合いを伝えるものでした。
 さて、弟橘媛が身を投げると、たちまち海が静まり、日本武尊は船を進めることが出来ました。また、身を投げた媛の身に付けていたものは、波に漂って今の東京湾周辺に流れ着きました。そのうち、髪につけていた笄は、この亀戸の地にたどり着いたとされています。かつて亀戸浅間神社がある辺りは「高貝州」と呼ばれており、その名残りを
伝えています。
 遥か古の夫婦愛、それを伝える痕跡はもはや何も残っていませんが、末永くその伝説を受け継いでいくためにこの碑を建立しました。
  平成弐拾四年六月吉日
笄(こうがい)
女性が身につける装飾具・結髪具で、髪をかきあげて髷を作るために用います。かつて、女性がはじめて笄で結い始める時には「笄礼(けいれい)」と称し、大人の女性になったことを示す儀礼としてとらえていました。」

    

  
 

「江戸名所図会 日本武尊東夷征伐」

 説明板に掲示の挿絵は、江戸名所図会を着色したものです。

(挿絵注記)

「日本武尊東夷征伐したまふ時相模国より上総国に征かんとしたまひし 其海上暴風忽に起り 王船漂蕩と危かりしかば 妾弟橘媛自の御身をもて贖ひ尊の命をたすけまゐらせんことを海神に誓ひ竟に瀾を披けて入たまひぬることは日本紀にみえたり」

   
 

「東都旧跡尽 吾嬬森の故事」(広重)

 広重は、吾嬬森の故事として描いています。

  
 

<亀戸の富士塚>

(説明板)

「江東区指定有形民俗文化財
 亀戸の富士塚
   亀戸九ー一五ー七 亀戸九丁目公園
   平成八年三月二二日指定
 富士山を信仰の対象とする富士信仰は、江戸時代後期には「江戸八百八講」と呼ばれるほど多くの富士講を誕生させました。そのため、各地には富士山を模した富士塚が多数築かれ、講員はそれに登って富士登山の代わりとしました。
 亀戸の富士塚は、弟橘姫の笄塚と伝えられている従来からあった塚を再利用する形となっています。頂上部は広く平坦に整地され、そこに浅間神社が富士山の方向(西南)を向いて鎮座していました。塚の側面は溶岩(黒ボク)で覆われ、山腹の正面(西南側)及び左右側面には、登山道に見立てた石段があり、麓にかけて石碑が二十三基、石猿が二体附属しています。このうち左側石段脇の烏帽子岩、左側面上部にある小御岳山碑、右側面石段脇の経ヶ岳碑の三碑は、当所の位置からは動いていますが、実際の富士山と共通させた「名所石」で、富士塚の構成上重要な石造物となっています。
 そのほかの石碑は、当地で活動していた富士講のひとつ丸富士講のもので、明治以降の年号が彫ってあります。丸富士講は、亀戸・大島・南堅川(以上江東区)・柳原(千代田区)・向島(墨田区)などの講員から成り、その活動は大正時代頃まで続けられました。
 平成九年東京都による亀戸・大島・小松川地区再開発事業に伴い、塚上にあった浅間神社は隣接地に移転しました。
(大正7年(1918)頃の富士塚を掲示)
  平成一三年三月  江東区教育委員会」

    
 

「この富士塚は、遠い遠い昔に「弟橘姫」の「笄」が流れ着いたと言われている貴い伝承の地であり、
(詳しくは階段下の看板をご覧ください)
かつて浅間神社が建てられていた元宮跡でもあります。
我が町の誇り・宝として大切に守って參りましよう。」

  
 

<たのみの辞碑>

「有形文化財(歴史資料)
 たのみの辞碑 一基」

(江東区HP説明)
「本碑は、明治33年(1900)6月、天変地異により塚が再び崩れてしまうことを憂えた有志により建てられたものです。
 碑文には、浅間山はその昔弟橘媛(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)が流れ着いたということから笄洲と呼ばれたこと、その後、時がたって荒れていた浅間神社や富士塚を有志が修造したことが記されています。
 周囲は火山岩で囲まれ、コンクリートで固められています。」

   
 

<石猿>

 神使の猿の石象が、不二惣元講の碑前にあります。
 子連れの猿像で、丸いものを持っています。

    
 

<小御嶽山/経ヶ岳>

 「小御嶽山」と「経ヶ岳」です。

   
 

<烏帽子岩>

 江東区の説明板によると、「左側石段脇の烏帽子岩」とありますが、
 この石段は柵内にあり、どれが烏帽子岩なのか確認できませんでした。

  
 

<富士山石碑>

 平成25(2013)年、富士山が世界文化遺産に登録されたのを記念して、富士山の形をした石碑が置かれました。
 富士山の方向を向いて建っています。

(碑表)

     

(碑裏)

   

(碑横)

  
 

<講碑>

     

      



○日本化学工業の邸内社 江東区亀戸9-11-1

 亀戸浅間公園から、日本化学工業の構内に立派な社が見えます。構内立ち入り禁止のため、詳細不詳。

   


戻る