Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステン

  ○ デ・リーフデ号      (千代田区丸の内)
    ・エラスムス像

  ○ 八代洲河岸        (千代田区丸の内)
    ・ヤン・ヨーステン屋敷地
    ・歌川広重生誕の地

  ○ ヤン・ヨーステン記念碑  (中央区日本橋・京橋)
    ・平和の鐘        (中央区日本橋・京橋)
    ・ツムラキリン像     (中央区日本橋)

  ○ ヤン・ヨーステン記念像  (八重洲地下街)
  ○ Edo-Tokyo・Yaesu History (八重洲地下街)

  ○ 三浦按針屋敷跡      (中央区日本橋室町)別頁


○デ・リーフデ号 千代田区丸の内2-4-1 丸の内ビルディング

 昭和55(1980)年、オランダ王国より寄贈された「オランダ船「デ・リーフデ号」」が展示されています。

    

 日本で保存され、国重要文化財となっている船尾の「エラスムス像」を確認していなかったので再訪。
 ありました!右手の巻物は「1598」の数字まで刻まれています。芸が細かいです。

   

 所在場所は丸ビルの南東側です。

  

(案内銘板)
「オランダ船「デ・リーフデ号」
Dit beeld van "De Liefde", dat als eerste Nederlandse schip in 1600 in Japan aankwam, werd op 22 April 1980 door de Nederlandse Minister-President, A.A.M. van Agt, tijdens diens bezoek alhier namens de Nederlandse Regering aan de Japanse Regering aangeboden.
本彫刻は昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたものである。
本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着したが、同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕え、わが国ではその名も八重洲として知られ将軍よりこの地域に住居を与えられていた。」

   
 

<リーフデ号の航海>

 慶長5年3月(1600年4月)、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)沖にオランダ船リーフデ号が碇を下ろしました。
 (到着地を佐伯湾の「指夫(させぶ)」する説が有力なようです。)
 ホープ号を旗艦とするリーフデ号を含む5隻の大砲と鉄砲で武装したオランダ船団(1598年設立のロッテルダム会社所属)は、
 1598年6月、南アメリカ及び東洋(できれば日本)を目指しロッテルダム(ゲーリーズガット)を出港しました。
 リーフデ号の前の船名は、エラスムス号であり、5隻の船はそれぞれ新たな船名で航海に出ました。
 船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとりました。
 マゼラン海峡で嵐に遭った船団は2隻・2隻・1隻となり、1隻となったヘローフ号は、オランダに引き返します。
 東インド諸島で、ブライデ・ ボートスハップ号はスペインに、トラウ号はポルトガルに拿捕されてしまいます。
 ホープ号とリーフデ号は、1599年11月に日本に向かうことを決定し、共に日本に向かいます。
 ホープ号は小笠原諸島近海で猛烈な嵐で沈没してしまいます。
 日本にたどりついたのはリーフデ号のみで、生存者は110人の乗組員のうち、24人でした。
 船長クワケルナック(前の船長は食糧調達の戦闘で死亡)、イギリス人航海士ウィリアム・アダム、高級船員ヤン・ヨーステン、乗員のサントフォールトらがいました。
 リーフデ号の船尾木像は、オランダの哲学者エラスムスをかたどったもので、東京国立博物館に保存(不定期展示)されています(国重要文化財)。
 (「国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流」及びオランダ大使館HPロッテルダム海洋博物館HPを参照して加筆しました。)
 

<リーフデ号のその後>

 リーフデ号は、家康の命により江戸へ向かうこととなります。
 和泉の堺浦へ入港、さらに江戸へ向かう途中、遠州灘で嵐により破船し、相模三浦郡浦賀湊に避難しました。
 乗組員はここから陸路で江戸に向かいました(「長崎実録大成」より)。リーフデ号は浦賀で朽ち果て解体されました。
 推測ですが関ヶ原の戦いと大坂の陣で使われたリーフデ号の大砲と鉄砲は、和泉の堺浦で降ろしたのではないですかね。
 リーフデ号の大砲は、スペイン無敵艦隊を破ったイギリス軍の射程の長い大砲と同様の大砲だったようです。
 

エラスムス像> 国重要文化財

 エラスムス像は、御持筒頭をしていた旗本牧野成里が手に入れ、知行地の羽田村の菩提寺竜江院に牧野家ゆかりの品々と共に寄進したとされます。
 エラスムス像は昭和5年、国宝に指定(法改正により、昭和25年に国重要文化財指定)、東京国立博物館に寄託されています。
 佐野市郷土博物館には複製品が常設展示されています。
 右手に持つ巻物の刻字は「ERASMUS ROTTERDAM 1598」と判読されています。
 欠けた左手手首が持っている欠けた書物は聖書と考えられています。オランダ最古の木彫です。
 エラスムスは「子どもといえども一個の人間だ」と、初めて子どもの権利を唱えた人物でもあります。

「エラスムス像(レプリカ)」(ロッテルダム海洋博物館所蔵 国立オランダ図書館所蔵画像)
 ロッテルダム海洋博物館が所蔵する「エラスムス像(レプリカ)」です。
 1962年に日本から寄贈されたプラスチック製のレプリカです。左手に持つ聖書が欠けています。
 右手に持つ巻物の刻字は「ERASMUS ROTTERDAM 1598」と判読されています。

   
 

<なぜ栃木に?一方的な推論>
 さて、ここからは一方的な推論です。リーフデ号は相模三浦郡浦賀で解体されていますが、
 三浦按針は自分の知行地が三浦郡逸見ですから、解体にも立ち会っていると考えます。
 エラスムス像は、三浦按針が仲間の菩提を弔うためにも所持するのが筋かと思います。
 しかしご時勢はキリスト教弾圧が強まっています。
 エラムス像が聖書を持っていたと考えられる左手が欠けているのは、右手の良好な保存状態に比べて不自然であり、
 キリスト教との関係を否定するための故意による欠損とも思えます。
 旗本三浦按針は、旗本牧野成里に砲術を指南しており、2人の関係は深そうです。
 リーフデ号を江戸へ回航させる命を家康から受けていたのが水軍の向井政綱で、リーフデ号解体も担当していたと思われます。
 家康が三浦按針に命じた洋式帆船建造には、向井政綱は子忠勝と共に支援に当りました。
 国立オランダ図書館のエラスムス像の解説(こちら)には、三浦按針の尽力により東京近郊の寺に安置されたとあります。
 三浦按針が、リーフデ号を管理していた向井政綱にかけあって、三浦按針と関係の深い牧野成里がリーフデ号解体時にエラムス像をもらい受けることとなり、
 キリスト教との関係を示す聖書を持つ左手を破却して、リーフデ号の乗組員の菩提を弔うために竜江院に寄進したと推測しました。
 

「De Liefde at Annobon」(1617年 ライデン大学図書館所蔵 国立オランダ図書館所蔵画像)

 船団は左から「De Liefde」「Geloof」「Hoop」「Trouw」「Blijde Boodschap」です。
 船団は食料調達のため西アフリカ沖のアンノボン島へ向かいました。
 島に駐屯するポルトガル人と住民は上陸を阻止しようとします。
 船団は島を襲撃し、ポルトガル人と住民は家に火を放ち、丘に逃げました。
 船団の乗組員はこの島に1か月間滞在し、その後マゼラン海峡への航海を再開しました。
 船団は1599年4月4日にマゼラン海峡に到着し越冬、同年9月3日に海峡を出ました。

   
 

「De Liefde号模型」(1940年 ロッテルダム海洋博物館所蔵 国立オランダ図書館所蔵画像)

 船の両側には8つの砲門があり、赤い舷窓と8門の展開式大砲がついています。
 右が船尾で、ランタンを載せたエラスムスの像が置かれています。
 当時のオランダ船は、船首像を備えませんでした。
 リーフデ号は船尾の「hekbeeld」(オランダ語:フェンスとか柵を意味)にエラスムス像を飾っていました。
 

   
 

「阿蘭陀入船図」(大畠豊次右衛門 国立国会図書館デジタルコレクション)

 オランダ船が描かれています。
 「人数百余人」との記載があるので、リーフデ号と同規模の船です。

  


八代洲河岸(ヤン・ヨーステン屋敷地)

ヤン・ヨーステン屋敷地>

 現在の八重洲は東京駅の東口ですが、
 本来の八重洲は、ヤン・ヨーステン屋敷地があった内濠沿いの地名(現在の千代田区丸の内二丁目)でした。
 明治5(1872)年に初めて町名「八重洲町」ができました。
 大正3(1914)年に永楽町及び八重洲町に東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となり、
 昭和4(1929)年に「八重洲町」は麹町区丸ノ内二丁目に改称され八重洲町は消滅します。
 昭和29(1954)年には東京駅東側一帯の「日本橋呉服橋」及び「槇町」が「中央区八重洲」となりました。

 「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年 国立国会図書館蔵)
  「八重洲町一丁目」及び「八重洲町二丁目」部分の抜粋です。

  
 

「江戸切絵図」

 「八代洲河岸」は、馬場先御門と日比谷御門の間の内濠沿(現在の丸の内3丁目と有楽町1丁目)に記載されていますが、
 和田倉門〜馬場先門の間の内濠沿(現在の丸の内2丁目)を「八代洲河岸」と記載する版もあります。
 「八代洲河岸」は、和田倉御門〜馬場先御門〜日比谷御門の内濠沿と認識されていたようです。
 「八代洲河岸」のどこかにヤン・ヨーステン屋敷がありましたが、諸説あり特定できません。
 「馬場先御門」右下に「定火消御役屋敷 松平采女」と記載されています。
 歌川広重生誕の地です。

  
 

歌川広重生誕の地>

 江戸時代の八代洲河岸は、歌川広重の生誕の地でもあります。
 広重は、寛政9(1797)年、八代洲河岸の定火消屋敷安藤家(現在の明治生命館)で生まれ育ちました。
 文化6(1809)年、13歳の時に両親を失い火消同心の職を継ぎます。
 文政6(1823)年、27歳の時には祖父十右衛門の実子の仲次郎に火消同心の職を譲り、浮世絵に専念します。
 

<安藤広重誕生地跡> 千代田区丸の内2-1-1

 東京都「丸の内今昔散歩」から「安藤広重誕生地跡」部分の抜粋です。

   

 明治生命館 千代田区丸の内2-1-1
    


ヤン・ヨーステン記念碑 中央区日本橋3-4〜京橋1-1先間 八重洲通り中央分離帯内

 八重洲通りの中央通りとの日本橋三丁目交差点の中央分離帯に、日蘭修好380周年を記念し、
 平成元(1989) 年に「ヤン・ヨーステン記念碑」が設置されています。
 日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まり、
 慶長14(1609)年、平戸にオランダ商館が設立されました。

 碑文に記されているように、ヤン・ヨーステンの屋敷は「八代洲河岸」(現在の日比谷通り:千代田区)にありました。
 また、八重洲町は東京駅の西側(現在の丸の内2丁目)にありました。
 八重洲通りの名にちなんで、記念碑がここに建てられているのだと思います。

 「ヤン・ヨーステン記念碑」と「平和の鐘」。八重洲通りの正面が東京駅八重洲口です。

    

(銘板)
「日蘭修好380周年記念 ヤン・ヨーステン記念碑
 二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は“時”の象徴でもありす。
 左側の頭部がヤン・ヨーステン像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。」

  

(碑文)
「ヤン・ヨーステン 1557頃〜1623
1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷は現在の和田倉門〜日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすかし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
     ヤン・ヨーステン像:オランダ人  L.P.ブラート作」

   

(碑文)
「日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。1609年(慶長14年) 平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380周年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。
  1980年4月20日  東京都中央区」

   
 

<所在地>

 東京駅八重洲口からのびる八重洲通りが、中央通りと交差する
 日本橋三丁目交差点の東京駅寄りの中央分離帯にあります。

   


平和の鐘

 中央区が昭和63(1988)年に「平和都市宣言」を行い、それを記念して平成元(1989)年3月15日に設置したものです。
 オランダ製で26個のベルがメロディを奏でます。

    

(プレート文)
「中央区は 1988年(昭和63年)3月15日に 世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し「平和都市宣言」をいたしました
 段上の三角形のアーチは この宣言を記念するモニュメントとして設置したものです。
 この平和の鐘は オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。
  設置 1989年(平成元年)3月15日 東京都中央区」

   


ツムラキリン像 中央区日本橋3-4-10スターツ八重洲中央ビル

 中央通りと八重洲通りの日本橋三丁目交差点角に、とても大きな王冠を戴いたキリン像がいます。
 像高は6m25cm。ヤン・ヨーステン記念碑を見ていると、いやおうなく目に入ります。
 旧津村順天堂ビル当時の津村順天堂(現:ツムラ 本社赤坂)が平成元(1989)年に設置(安藤泉氏作品)。
 王冠は照明器具で、ビルの吹き抜けの天井を照らしていました(現在は点灯していません)。
 なぜキリン像なのか、設置したツムラもわからないそうです(中央区観光協会特派員ブログに記載)。
 照明として高さが必要だったから?背の高いキリンが選ばれ?キリン像である必然性はないのかもしれません。
 あるいは、動物をモチーフにした巨大な作品で知られる鍛金彫刻家である安藤泉氏に依頼したから、
 必然と巨大キリン像になったのかもしれません。

     

 岡本太郎だったら数寄屋橋「若い時計台」のような照明にしたかもしれませんね。

  
 

(参考)安藤泉氏の作品(2017年)

 「ムー大陸よりU」 大島小松川公園(江戸川区小松川) こちらで記載

    



 


ヤン・ヨーステン記念像 中央区八重洲2-2-2 外堀地下1番通り

 東京駅八重洲地下街(外堀地下1番通り)に、「ヤン・ヨーステン記念像」が置かれています。
 記念像の左には「EDO-TOKYO・YAESU HISTORY」により、ヤン・ヨーステンの解説や、リーフデ号の航海経路などが紹介されています。

     
 

<ヤン・ヨーステン記念像>

   

(台座銘文)
「ヤン・ヨーステン記念像 オランダ人 LPJブラート作
ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦一六○○年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまゝ日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。こゝに彼を偲んで記念像を置く。」

  
 

<八重洲の由来となったオランダ人>

 「EDO-TOKYO・YAESU HISTORY」「八重洲の由来となったオランダ人 ヤン・ヨーステン」の説明パネルです。

   

(説明板)
「八重洲の由来となったオランダ人
 ヤン・ヨーステン ?〜1623
 ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。
 ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。
 「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内1丁目付近)。
 その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
 日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。
 また、慶長14年(1609)、長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。
 のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。」

   

「リーフデ号の航海経路」

  

「阿蘭陀船(長崎歴史文化博物館所蔵」

  

「江戸時代の東京駅付近」「現在の東京駅周辺」
 「和田倉門の南に八代洲河岸の表記がある。」

   

「リーフデ号模型」(日本郵船歴史博物館所蔵)

  
 

<八重洲地下街案内図>

 案内図には「ヤン・ヨーステン記念像(Jan Joosten van Loodensteyn statue)」が記載されています。

    
 

<ヤン・ヨーステンのイラスト>

 ヤン・ヨーステンが、外堀地下1番通りのマスコットキャラクターとなっています。

   


Edo-Tokyo・Yaesu History 中央区八重洲1-9-1 外堀地下1番通り

 八重洲の歴史を浮世絵で紹介している江戸東京博物館が監修するギャラリーです。

   
 

<案内図>

 「ヤン・ヨーステン記念像」から、外堀地下1番通りを北に進んだ東壁面にあります。

   
 

<八重洲の由来>

    

(説明板)
「「八重洲」の由来
 八重洲」の名は、慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員であったヤン・ヨーステンの名に由来するという。ヤン・ヨーステン(日本名、耶揚子)は、徳川家康の通訳として重用され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりを八代洲(やよす)河岸といった。「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、その「八重洲」という広域地名が、初めて町名となったは明治5年(1872)のこと(現・千代田区丸の内一丁目付近)。その後大正3年(1914)に東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。ちなみに、リーフデ号の水先案内人であった英国人ウイリアム・アダムズ(日本名:三浦按針)も家康の外交顧問となり、日本橋近くに屋敷を与えられたので、このあたりを按針町(現・室町一丁目、本町一丁目)といった。
 左上:ヤン・ヨーステン像 L.P.J.ブラート作(八重洲地下街センタースポット)
 右上:徳川家康像(「東照大権現霊夢像」)徳川記念財団所蔵
 左下:ウィリアム・アダムス(和名:三浦按針)像 重岡建治作(伊東市渚公園)
 右下:リーフデ号模型「サン・ブエナ・ヴィンツェーラ号」像 重岡建治作(伊東市渚公園)」
 

<一石橋から見た「水の都」>

 「名所江戸百景 八つ見のはし」(広重)を掲示。

   
 

<繁昌する江戸のメインストリート>

(説明板)
「繁昌する江戸のメインストリート
 今に続く江戸のメインストリート、通町筋(現・中央通り)。道幅約18メートルに及ぶこの土の道に行き交う人々と軒を連ねる大店。画家のまなざしは、木彫りの龍を戴く建看板、あるいは屋根上に梯子が聳え立つ自身番屋に注がれており、これらが不自然なほどに大きく描かれている。通り右端の書店には、天井から釣り下がった絵を興味深そうに指さす子どもが描きこまれており、その姿が微笑ましい。「日本橋付近」というタイトルをもつこの絵は、幕末の江戸を訪れたプロシアの外交使節団がまとめた報告書の付図で、繁昌する江戸の様子を克明に伝える貴重な記録である。
「日本橋附近」(「公式資料によるプロイセンの東アジア遠征」の付図) 東京都江戸東京博物館所蔵」

   
 

<京橋夜景>

 「名所江戸百景 京橋竹がし」(広重)を掲示。

   
 

<ウォーターフロントでの歌舞伎>

 「江戸名所図屏風」を掲示。

   
 

<日本橋>

 「江戸名所図屏風」を掲示。

   
 

<城郭都市「江戸」>

 「江戸絵図屏風」を掲示。

   


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