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 伊藤左千夫

 「伊藤左千夫肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
  元治元年8月18日〜大正2年7月30日(1864年9月18日〜1913年7月30日)
  明治18(1885)年上京、乳業店で働いた後、明治22(1889)年独立して乳業店を営みました。
  明治33(1900)年正岡子規に師事し作歌に励みます。子規の没後は根岸短歌会の中心的な歌人となりました。

    

 【墨田区】
  ○ 伊藤左千夫牧舎兼住居跡と歌碑(錦糸町駅)

 【江東区】
  ○ 伊藤左千夫歌碑     (五之橋)   別頁
  ○ 伊藤左千夫歌碑     (大島)
  ○ 伊藤左千夫宅跡(終焉地)(大島)
  ○ 伊藤左千夫歌碑     (亀戸普門院) 別頁
  ○ 伊藤左千夫の墓     (亀戸普門院) 別頁
  ○ 伊藤左千夫設計の茶室  (平井聖天宮) 別頁

 【松戸市】 別頁
  〇 野菊の墓碑      (矢切の渡し公園)
  〇 野菊の蔵       (やきり観光案内所)
  〇 野菊のこみち     (矢切の渡し〜矢切橋)
  ○ 野菊のような人文学碑 (矢切橋)
  ○ 野菊のこみち     (矢切橋〜大坂)
  〇 野菊の墓文学碑    (西蓮寺)
  〇 野菊苑        (野菊のこみち終端)

 【山武市】 別頁
  ○ 伊藤左千夫歌碑 (成東)
  ○ 伊藤左千夫歌碑 (蓮沼)


伊藤左千夫牧舎兼住居跡と歌碑 墨田区江東橋3-14-6

 錦糸町駅南口のロータリーに、説明板「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」と「伊藤左千夫歌碑」があります。

   

(説明板)
「伊藤左千夫牧舎兼住居跡  所在地 墨田区江東橋3-13
 この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
 この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
 隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
  平成二十四年三月  墨田区教育委員会」

  

「左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)」

  

「本所茅場町の牛舎」

  

<伊藤左千夫歌碑>

 「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 左千夫」

   


伊藤左千夫歌碑 江東区大島3-22-1

 都立城東高等学校の北の歩道に面して伊藤左千夫の歌碑(昭和54(1979)年建立)があります。
 竪川人道橋南詰のすぐ近くです。

    

    

<歌碑>

(碑表)
 「竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
  左千夫作 門人文明しるす」

   

(碑陰)
「伊藤左千夫先生
 先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治二十二年より、本所茅場町(現錦糸町駅前)にて牛乳搾取業を営む。明治三十三年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
 大正元年五月、府下大島町字亀戸九○二(現大島六丁目一番)に牛舎を移し、翌二年三月には住居も移したが、同年七月三十日に急逝した。享年五十歳。
 碑の歌は明治四十年発表の「勾王日記、四月十七日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
 先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、土屋文明先生の御支援を得て完成した。
 昭和五十四年十一月十日建立」

  


○伊藤左千夫宅跡(終焉の地)江東区史跡 江東区大島6-1 

 UR大島6丁目団地は、伊藤左千夫終焉の地です。
 中央広場の時計塔の下部に伊藤左千夫の歌碑がはめられています。
 左千夫の門人の土屋文明の揮毫です。
 伊藤左千夫終焉の地を記念して左千夫記念会が、昭和55(1980)年7月に建てました。

    

    

<歌碑>

 「左千夫
  朝起きてまだ飯前のしばらくを
  小庭に出でて春の土踏む
   大正二年七月三十日
   伊藤左千夫この地に没す
        左千夫記念會」

 『アララギ』(大正2年3月1日)に掲載された歌です。

    


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