○ 今川橋由来碑
○ 今川橋跡碑
○ 今川橋のあとどころ
〇 主水河岸/主水の井 別頁
○ 竜閑川埋立記念
○ 龍閑橋の親柱と桁
○ 本銀通り
千代田区と中央区の境となっている細い道路は、昭和25(1950)年に埋め立てられるまで、
龍閑川が流れ、中山道には今川橋が架かっていました。
今川橋の付近で売られていたのが「今川焼」です。
今川橋跡から東方向
今川橋跡から西方向
「江戸名所図会 今川橋」
江戸名所図会に「今川橋」が記載されています。
「此辺瀬戸物屋多し」とあります。
2枚目は瀬戸物屋を拡大しています。
「江戸切絵図」
今川橋と地蔵橋の記載があります。
「熈代勝覧絵巻」
今川橋部分の抜粋です。
「江戸名所百人美女 今川はし」(三代歌川豊国、二代歌川国久 安政5年)
コマ絵に「今川橋」が描かれています。
<今川橋由来碑> 千代田区鍛冶町1-5-7 江原ビルディング前歩道
(説明板)
「今川橋由来碑」
今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(一六八一〜八三)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。
神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
昭和二十五年(一九五○)龍閑川は埋め立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。
平成四年四月吉日
(「江戸名所図会」今川橋掲示)」
<今川橋跡碑> 千代田区鍛冶町1-5-7 江原ビルディング脇
表面「今川橋跡
1976・3 千代田区鍛冶町一丁目町会」
側面「建設者
江原商事株式会社」」
「今川橋の由来」
(説明板)
元禄四年(一六九一年)この地、東西に堀割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろかねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と堀割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この堀割は、神田と日本橋の境界として十一の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
昭和二十五年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、三百六十年の歴史を閉じた。
平成元年一月吉日 鍛冶町一丁目町会
場所提供者 江原富夫氏」
東山ビルの一角に、石碑「今川橋のあとどころ」があります。
「今川橋のあとどころ
昭和五十一年五月 東山興業株式会社」
昭和通りに面した中央区立地蔵橋公園に「竜閑川埋立記念」碑があります。
「千代田区神田
竜閑川埋立記念
中央区日本橋」
(説明プレート)
「龍閑川の由来と埋立
江戸砂子や新編江戸志には約二百七十余年前の天和年間に防火のために掘ったもので神田橋と常盤橋の間から外濠の水を東方にあった浜町川に注ぐその両岸は石垣でたたみ川巾六間神田堀と呼んだ、元禄四年にも掘った 安政四年四月土手を崩して堀を入口の竜閑橋だけを残して埋めたが明治十六年再び掘って防火用雨水用として川名を竜閑川と名づけた、昔時この川の西端に住んで居た井上竜閑は江戸城つとめの殿中接待役「お城坊主」として有名であった、後その所を竜閑町といった、当時神田堀の別名に八丁堀火除堀、銀堀等といわれ堀の堤を八丁堤といって松を並木に植えた時代もあった 川には舟の往来もあったが近頃下水より汚水流れ込み悪臭を発散しごみを捨てるため蚊蠅等わき衛生上宜しくなく川は全く無用のものとなった、
東京都は第二次世界大戦直後川底に大下水管を埋設して戦災燒残土を以て埋立て宅地をつくり復興を促進する計画をした 神田及日本橋より選ばれたる連合委員会は賛意を表し将来を推察して新埋立地を土地現住の人々に払下げられたき件を申請し中間に立ちて其労をとる事を願出た昭和二十五年三月埋立工事竣工しこの大事業も滞なく完成した
今回もと竜閑川のあつた中央地点地蔵橋際兒童遊園の東北隅を選び東京都の御承認を得て竜閑川埋立記念碑を建立したのであります
この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって神田、日本橋区民の親和を増進するもの昔は川今は竜閑新道を中心に精励努力以て土地の発展に尽くされん事を」
龍閑橋は、大正15(1926)年に造られた日本で最初の鉄筋コンクリート製のトラス橋で、龍閑川に架けられていました。
千代田区と中央区にまたがっている鎌倉児童遊園に、親柱と桁が保存されています。
<龍閑橋の歴史と由来>
(説明板)
「龍閑橋の歴史と由来
もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。
(「●明治時代の龍閑橋」「龍閑橋の位地図」を掲載)「明治東京名所図会」より」
<龍閑橋について碑>
(碑文)
「龍閑橋について
この橋は 大正15年(1926年)に造られた日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変めずらしい橋です。
これを記念するため その一部をここに保存します。
橋 長 10.5
幅 員 27.0
構造型式 鉄筋コンクリートトラス桁」
日本橋通りを東西に、旧龍閑川に並行して、「本銀(ほんしろがね)通り」があります。
<本銀通り案内板> 中央区日本橋室町四丁目3番
(案内板)
「本銀通り
起点 日本橋本石町四丁目2・3番先
終点 日本橋本町四丁目5・6番先
日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町の各四丁目北半分に当たる場所は、江戸時代初期から昭和7年(1932)まで「本銀町(ほんしろがねちょう)」と称する町でした。
町の北は竜閑川(神田堀・神田八丁堀・銀堀とも称された神田との境をなした堀割)に、西は江戸城の外堀に面する当町は、江戸時代を通して商業の中心地となっていました。
東西に広がる町屋であった本銀町(一丁目〜四丁目)は、町名の由来となった「銀細工職人」が集住するとともに、数多くの商家が立ち並んでいました。なお、本銀町の名は、神田に起立した「新銀町」と区別するために「本」の字を冠したといわれています。
当町在住の商人や諸職名匠には、刀脇差細工・縫箔屋・指物屋・塗師・蒔絵師・彫物師・小細工印判師・鍔師・象嵌師・塗鞘師・目貫師・柄巻師・御楽器道具師・御仏師などがおり、武家の消費需要を賄う町人地として大いに発展しました。
また、『江戸名所図会』には、明暦3年(1657)の大火後に町の北側(電閑川沿い)に築かれた防火用の「本銀町封て」(高さ2丈4尺<約7.27メートル〉・長さ8丁<約872メートル>の石垣土手)と松並木の痕跡を紹介している他に、本銀町・本石町の各一・二丁目辺りが「福田村旧跡」(大久保主水<藤五郎>の屋敷があった旧福田村)であることを記しています。
関東大震災発生(大正12年)後の復興事業によって、歴史ある「本銀」の町名は姿を消しましたが、幸いにも旧町を東西に貫く通りは今日まで残されました。江戸時代以来、人びとの往来に利用されてきたこの通りは、平成27年に名付けられた「本銀通り」(幅員11m・延長520m)の道路愛称ともに往時の歴史をしのばせています。
平成28年4月 中央区環境土木部」