○ 弁慶鏡ヶ井戸
○ 境稲荷神社
○ 喜連川藩上屋敷跡
○ 無縁坂
○ 常楽院別院 別頁
○ 池之端児童遊園 別頁
○ 森鴎外居住の跡 別頁
東京大学池之端門の左脇にある井戸です。
源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝えられています。
木札「銘水 弁慶鏡ヶ井戸」
手押しポンプからは井水は出ますが、「この水は飲めません 雰囲気をお楽しみください」とのこと。
<名水 辯慶鏡井>
「名水再顕建碑者」の筆頭には、近くに住んでいた「横山大観」の名前が見えます。
(碑文)
「名水 辯慶鏡井
此の井水は往昔より清冽明澄なる事鏡乃如く里人呼んて辯慶鏡ヶ井と称へたる名水なり隣地境稲荷は文明年中此創建にかかりもと別當を原泉山三光寺といひしも此乃地尓名水の滾々と湧出志たるによりしなるへし」
(碑陰)
「紀元二千六百年紀念
昭和十五年十一月
玉林繁撰
上杉神社宮司正六位
大乗寺良一書
「名水再顕建碑者
横山大観・・・」
(説明板)
「境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸 台東区池ノ端一ー六ー一三
境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(一四六九〜一四八六)に室町幕府第九代将軍足利義尚が再建したという。『境稲荷』の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池ノ端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和一五年に再び掘り出し、とくに昭和二〇年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。
台東区教育委員会」
境稲荷神社は、文明年間(1469-1487)足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられます。
忍が岡と向が岡の境に鎮座していることから境稲荷と称され両村の総鎮守でした。
鳥居扁額「忍岡 向岡 総鎮守境稲荷社」
(掲示)
「由緒
文明年間足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられ忍が岡と向が岡の境に鎮座するところから境稲荷と称され両村の総鎮守であった。
寛延三年隣地岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ義尚公自筆の扁額や重宝古記録とも焼失したが別当慈海によって再建された。
現参道口鳥居の扁額はこの時拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものである。
古歌「忍ぶ丘向ふる岡の境なる神のやしろは松の下谷」
その後明治二十八年湯島切通坂鎮座の宝剣稲荷を合祀している
昭和二十年三月戦禍を受け現在の本殿拝殿鳥居並に社務所は平成5年の造営である
境内本殿裏の井戸はその昔の当社別当原泉山三光寺の名称からも非常に古くからの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水をもって知られている。」
<社殿>
「江戸切絵図」
「江戸切絵図」に「イナリ」とあります。
「松平出雲守」とあるのは、富山藩の上屋敷です。
池之端門から入った一帯がその地でした。
右手には「喜連川左馬頭」の上屋敷が見えます。
「現地東京大学の案内図」
喜連川藩は徳川家とは主従関係がない特殊な扱いで、5000石なのに10万石の待遇を受けていました。
参勤交代の必要もなく、妻子を江戸に住まわす義務もありませんでした。
正賀のため毎年12月に参府していましたが、喜連川藩には幕府からは屋敷地が下賜されないので、
参府の際に藩主が宿泊する場所として、七軒町に自前で藩屋敷を整えていました。
(参考)「喜連川宿」(こちらで記載)
「江戸切絵図」
江戸切絵図には代々の鎌倉公方が叙任された「左馬頭」と記され、また上屋敷扱いされています。
喜連川公は無位無官だったので、左馬頭は自称です。
加賀藩、大聖寺藩、富山藩の上屋敷に比べて、小さな屋敷地です。
「現在の地図」
ルネッサンスタワー上野池之端が建つ場所一帯が、喜連川藩上屋敷のあった場所です。
森鴎外の代表作『雁』の舞台、また、さだまさしの『無縁坂』の舞台となっています。
坂下には常楽院別院(江戸六阿弥陀第五番)(こちらで記載)、坂上に東京大学の鉄門(こちらで記載)があります。
坂の南側は、旧岩崎邸庭園です。
(説明板)
「無縁坂 むえんざか
『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝・・・・・」とある。
団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・・』
坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
不忍の 池の面にふる春雨に
湯島の台は 今日も見えぬかも
岡 麓(本名三郎:旧本郷金助町生まれ1877〜1951・墓は向丘二丁目高林寺)
文京区教育委員会 昭和55年1月」