かつての池袋は、池袋駅より北側、当社を中心とした「池袋本町」周辺が中心でした。
明治時代に境内から谷端川にいたる付近一帯から発見された貝塚は「池袋西貝塚」として知られています。
「池袋東貝塚」については、こちらで記載。
<表参道>
社号標「氷川神社」
一之鳥居は、昭和40(1965)年に社殿が造営された時の建立です。
<二之鳥居>
大正4(1915)年に建立された鳥居です。
<狛犬>
昭和40(1965)年に社殿が造営された時に奉納された狛犬です。
歯を見せて笑っています。
<由緒>
(石碑文)
「氷川神社略記
御祭神(省略)
御由緒
建速須佐之男命を主神としておまつりし 古い時代から今日にいたるまで 池袋村の鎮守 氏神さまとしてこの土地に住む代々の人々の守り神として崇敬されてきました。
埼玉県大宮市鎮座の氷川神社(武蔵国一之宮 平安時代の延喜式神名帳所載の官幣大社)から分かれた神社とも言われています。
池袋の名は 今から四百三十年前の室町時代 永禄二年(西暦一五五九年)の「小田原衆所領役帳」に「武州豊島郡池袋村」と書かれ 当区内の長崎 菅面(巣鴨) 駒込、雑司谷 高田とともに 当時すでに村が形成されていたことが記録されています
天保元年(一八三○年)の「新編武蔵風土記稿」の池袋村の条に「氷川社 村ノ鎮守」の記述があります。
昭和の大戦に際して 東京大空襲の災禍にあいましたが 氏子中の一致協力により 戦後の混乱下にもかかわらず御復興を成し遂げました
現在の御社殿は 昭和四十年の御造営氏子総奉賛事業として竣功した 戦後二度目の建築です。
当神社の境内から およそ三千五百年前の縄文時代後期に使用されたと推定される土器片が発掘採集されています また明治時代に境内から谷端川にいたる 付近一帯から発見された貝塚は「池袋貝塚」として知られ 曲玉 管玉 土偶なども出土しています この土地で生活した古代人の様子がうかがえますが これは豊島区歴史年表の最初の項目を記すものです」
<奉納碑>
<手水舎/百度石>
手水舎の手前に百度石があります。
<社号碑>
<土俵>
土俵には覆いがかぶせられています。
渋谷氷川神社には、屋根付の土俵がありました(こちらで記載)。
<八紘一宇>
昭和15(1940)年の奉納です。
(表)
「紀元二千六百年記念 八紘一宇 陸軍少将 中柴末純書」
(裏)
「記念碑壹基櫻樹六本 本事業ハ班員ノ浄財據出勤勞奉仕ニ依り完成ス
昭和十五年十一月十日
帝國在郷軍人會池袋分會第六班」
<掲揚台>
戦前かと思える表記ですが、戦後です。
「敬神崇祖 文部大臣 中村梅吉謹書」
<御輿庫>
<境内社>
御祭神
日本武尊・應神天皇・菅原道眞命
<社殿>
明治45(1912)年に「池袋月三十七夜元講」によって築かれた富士塚です。
7月1日と7月の第一日曜日の年に2日だけ、「お山開き」で登拝可能となっています。
普段は、門は開いていますが、「お山にのぼらないでください 社務所」との掲示です。
登山口に「神猿」がいます。
<修復事業完遂>
令和5年6月に富士塚の修復事業完遂とのこと。
(説明板)
「池袋富士塚
富士塚は、さまざまな理由から富士登山ができない人たちも、これに登れば富士山に登ったのと同じ霊験が得られるとして、江戸時代後期以降、現東京都域および近隣地域に各富士講集団を単位として築造されたものである。高さ約五メートル、東西幅約一三メートル、南北幅約一八メートルを測り、全山がボク石で覆われている。登山道は正面部分に電光形に設けられており、その道筋ははっきり確認できる。
この池袋富士塚は明治四五年(一九一二)六月に池袋月三十七夜元講によって築かれたものである。塚内に造立された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団とのつきあいの様子が知られる。一般に、富士塚の石造物は、頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす石祠、中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としている。池袋富士塚の石造物は、こうした特徴を備えているほか、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、講碑、教祖角行像、一対の天狗像、さらに胎内が配置されており、充実した石造物群を構成している。
豊島区に残された数少ない富士塚のひとつとして、また池袋本町地区に展開した民間信仰を考えていくうえでも貴重なことから、平成十年(一九九八)六月に東京都豊島区指定史跡となり、保存がはかられている。
平成十一年三月 東京都豊島区教育委員会」