○ 煉瓦工場と荒川遊園
○ 荒川遊園煉瓦塀
○ 尾久図書館
○ 佐藤病院
○ 煉瓦造神輿庫
○ あらかわ遊園
○ 荒木田の原
あらかわ遊園の入口、荒川遊園煉瓦塀の南西端に、説明板「煉瓦工場と荒川遊園」があります。
<煉瓦工場と荒川遊園>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
煉瓦工場と荒川遊園
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、船運が期待されてのことである。
旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。
その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった。
荒川区教育委員会」
荒川遊園の外側、小台橋保育園の脇(西尾久六丁目20)に続いている「荒川遊園煉瓦塀」の東南に説明板が設置されています。
説明板の脇には。門柱の片方が残っています。
(説明板)
「荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正十一年(一九二二)、荒川遊園地が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、舟運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正十一年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された民営遊園地です。
その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和二十四年(一九四九)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
令和二年(二○二○)三月 荒川区教育委員会」
<荒川遊園煉瓦塀>
<現在の煉瓦塀>
現在のあらかわ遊園を囲う煉瓦塀は、新しいものです。
尾久図書館の前に、「荒川遊園煉瓦塀」の一部が移設され、説明板が設置されています。
図書館の隣は宮前公園の南端ですが、送電塔が延々と続き、送電塔の周りは高層建物がないので、とても開放感のある光景がグッドです。
(説明板)
「荒川遊園煉瓦塀
この煉瓦塀は、西尾久6丁目に現存する「荒川遊園煉瓦塀」(区登録有形文化財)の一部を移設したものです。
積み方は、煉瓦の短い目んを見せる“小口積み”と、長い面を見せる“長手積み”を、一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」という方法を用いています。
煉瓦製造は、尾久の近代を象徴する産業です。かつて尾久の隅田川沿いには、材料の土が入手しやすく、舟運の便がよかったことから、多くの煉瓦工場が設けられました。
その一つ、広岡煉瓦工場(のち王子煉瓦工場に改名)の跡地に、大正11年(1922)、荒川遊園が開園します。この時、木の塀から煉瓦塀に改修されたといわれ、今でも荒川遊園の周辺には煉瓦塀が残っています。
荒川区教育委員会」
旧小台通りにある佐藤病院に、煉瓦塀があります。
山本煉瓦工場の刻印が見られます。
長方形に山本と、山に本の2種類の「山本」の刻印があります。
船方神社境内の左手に煉瓦造の神輿庫があります。
「奉納 廣岡幾次郎」とあります。
あらかわ遊園に、かつて広岡煉瓦工場がありました。
煉瓦は広岡煉瓦工場製のものでしょう。
あらかわ遊園がリニューアルオープン(2022年4月21日)しています。
入園には事前予約が必要とHPに記載されていますが、余裕のある時は予約なしで入園できます(掲示がありました)。
<観覧車>
隅田川沿の「アリスの広場」から撮影。
<アリスの広場>
平成6(1994)年に国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
「ようこそ あらかわ 遊園へ!」の看板下に、何かあります。
高浜虚子の俳句がありました。
「俳句のまち あらかわ
川の面に こころ遊びて 都鳥 高浜虚子」
<一球さん号>
前方を照らすライトが1個であることから「一球さん」の愛称で親しまれていた都電6000形車両です。
最後の一台が50年間の現役を終え、平成14(2002)年4月に荒川区に譲渡され、あらかわ遊園に設置されています。
令和4(2022)年のリニューアルオープン後は「カフェ193」として利用されています。(利用は入園が必要です)
<あらかわ遊園の歴史>
・煉瓦工場
明治5(1872)年に、石神仲衛門によって煉瓦工場が建築されます。
その後、鳥井某氏の手を経て、明治28(1895)年に、広岡幾次郎氏に経営が譲渡され、広岡煉瓦工場となります。
大正10(1921)年、広岡煉瓦工場は火災により焼失します。
・「あら川遊園」と「尾久温泉」
大正11(1922)年、王子電気軌道株式会社社長の援助を得て、工場敷地を「あら川遊園」として5月に開園します。
その時に、煉瓦を干していた丸太の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
また、西尾久二丁目にある碩運寺の井戸から鉱泉が湧き、大正3(1914)年に「寺の湯」(後の不老閣)が開業します。
その後、周辺に次々と温泉旅館ができ、商店街が形成されていきました。温泉街を背景に生まれたのが「尾久三業地」と呼ばれた花街です。
「あら川遊園は、尾久三業地とともに大いに賑わいました。(尾久温泉はこちらで記載)
・「あらかわ遊園」と「王子電気軌道」
「あら川遊園」は、広岡氏没後の昭和初期の不景気によりは経営悪化、昭和7(1932)年にその経営は王子電気軌道の手に委ねられます。
昭和16(1941)年には園内に高射砲陣地が設置されました。
昭和18(1943)年には戦時下の企業整備により王子電気軌道は解消し、軌道事業は東京都に、電気事業は関東配電株式会社(のちの東京電力)に併合されました。
「あら川遊園」は、関東配電株式会社の所有となります。会社の寮と戦災者住宅があったようです。
・児童遊園の誕生と「あらかわ遊園」
昭和24(1949)年7月、東京都は関東配電株式会社と賃貸契約を結び、「荒川区立児童遊園」が誕生しました。
大人向けの「あら川遊園」から、子どもの健全育成のための児童福祉法に定める「児童遊園」として誕生しました。
翌昭和25(1950)年3月に都市計画公園「荒川公園」として指定され、8月に「区立荒川遊園」が開園します。
現在の荒川区立児童遊園条例には「あらかわ遊園」の記載はなく、都市計画法では「都市計画公園 第3・4・54号荒川公園」として定められています。
荒川区公園条例では、都市公園法による「荒川区立荒川遊園」として定められています。
児童福祉法に定める児童遊園から都市公園法に定める公園に種別が変更されていますが、
子どもの目線に立ったあらかわ遊園は、現在は大人も利用できますが、昭和24(1949)年に誕生した児童遊園の精神を受け継いでいると思えます。
(『荒川区土木誌』(荒川区土木課)及び現地説明板等を参照しました。)
三河島村に、字荒木田がありました。現在の荒川区町屋八丁目・同一丁目の隅田川岸辺の地域です。
<荒木田土>
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いには、煉瓦の製造に適した土が入手しやすかったため、いくつもの煉瓦工場がありました。
その煉瓦の製造に適していた土が、「荒木田土」です。
荒木田土は、荒川(現在の隅田川)が氾濫し流域に堆積した土で、その土質は粘り強く丸く角がない土です。
壁土や今戸焼などの焼物の土として重宝されていました。
荒木田の原(現:東京都荒川区町屋)で採れる土が良質であったため、ブランド名となり荒木田土の名称で呼ばれます。
現在は、園芸用の土として多く利用され、国技館の土俵や野球場のピッチャーマウンドにも用いられています。
荒川区荒木田では荒木田土は採取できなくなり、名前だけが残っています。
(「荒川がもたらした恵み「荒木田土」」(国土交通省
関東地方整備局)を参照しました。)
<荒木田大根>
荒木田は汐入とともに、大根の産地でもありました。
隅田川上流の荒木田地域で作られた二年子大根(晩秋に種子をまき、翌年の春に収穫)は「荒木田大根」と呼ばれ、
下流の汐入地域で作られた大根は「汐入大根」と呼ばれました。(汐入大根はこちらで記載)
<説明板「荒木田の原」> 荒川区町屋8-17
都営町屋八丁目アパート前に説明板「荒木田の原」があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
荒木田の原
町屋八丁目・同一丁目のあたりは、字荒木田の名でよばれたところである。この地一帯は荒木田の原といわれ、春ともなればスミレやレンゲなどが咲き乱れて、江戸後期の文化・文政のころは市民遊楽の地であった。とくにスミレは有名で『江戸名所花暦』(文政十年刊)にも紹介されている。
またこのあたりの畑土は「荒木田土」とよばれ、壁土や焼物用として珍重された。
荒川区教育委員会」
<荒木田交差点> 荒川区町屋
交差点にも「荒木田」の名前が残っています。交番も「荒木田交番」です。
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
江戸の九段に住む清水徳川家の家臣村尾嘉陵が川口善光寺に詣でた時の路程図の一部を抜粋しています。
「荒木田ノ原」が記載されており、「出ス土ヲ荒木田ト云」と説明されています。